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アイヌ文化のふるさと「二風谷(にぶたに)コタン」その3


アイヌ文化のふるさと「二風谷(にぶたに)コタン」その3
「二風谷アイヌ博物館」のつづき

身に着けるもの

写真上は アイヌ語で「タマサイ」 首飾り
下左はサケの皮で作った靴など
下右は手甲 (作業用手袋) アイヌ語で「チカミコテ」 「テクンペ」 
「ホシ」脚絆 糸巻なども写っている

身に着けるもの1(1)

衣服

衣服は動物を使った衣服(獣皮衣 魚皮衣 鳥羽衣)
植物を使った衣服(樹皮衣 草皮衣) 
また外来の衣服として 本州や大陸から渡ってきた木綿の古裂(ふるぎれ)でアイヌの人たちが作った衣服(木綿衣)があるようだ

写真左は正装用衣服のようだが 頭にはサパウウンペ(写真左下に小さく写っている)をかぶる
これはブドウ蔓(つる)や木の皮で作り 神にささげるイナウ(御幣)をつけ
晴着の上には陣羽織を羽織る 
さらに エムシアツ(刀掛帯)に刀を通し身に着け儀式用に用いた

衣服1-1(1)

これは代表的な樹皮衣でアトゥㇱと呼ばれた衣服

衣服2(1)
アトゥㇱはオヒョウの木の樹皮がよく使われた

その方法は 
木の皮は立木のまま下から上へ剥ぎあげるときれいに取れ 剥ぎ取ったらその場で外皮を取り除き内皮だけを持ち帰り 温泉に(あるいは沼)に漬け 繊維が柔らかくなったら流水でヌメリをおとし 数枚に剥がし 天日乾燥させて糸に紡ぐ 

オヒョウの繊維は長くとれるので紡錘車のようなものは必要がなく 手を使って軽く撚りをかけながら機結びにして 糸球を作った

木の皮は一枚だけ剥がしたら 樹皮が再生できるよう印をつけ それ以上剥がさないようにした
必要以上は取らないというアイヌの精神は 欲深い和人との大きな違い

アイヌ文様

アイヌ独特の文様は衣服や服飾品に付けられている
文様は祖母から母親へそして娘へと 母方の系譜に伝え続けられているそうだ

この記念館には様々な刺繍文様が展示されていた

アイヌ文様1(1)

一方男性の場合は小刀を使った彫刻文様があり
この小刀文様は代々男親が伝えるもの

アイヌ文様2(1)

横道に逸れるが 
カナダ西海岸の先住民族が代々伝えているトーテムポールの文様もその家独自の文様
アイヌ民族とカナダ西海岸の先住民族の文化には共通点がある

トーテムポール1(1)
  (トーテムポール 萌樹工房作)

儀式

カムイミンタㇻ(神々の祭り場)

火の神や水の神は位が高い 神の国では神々は人間と同じ姿や形で暮らしている
クマ神タヌキの神はときどき肉や毛皮を身にまとって人間の所へ遊びに来る
アイヌはそう考えていた

この場所は人が住むチセではない 
今立っているここは 神々が集い遊ぶ神の国の祭り場
ここには 捧げ物がたくさん並んでいる 
人間たちが神々に見せよう 聞かせようと歌い・踊り・語る

カムイミンタㇻ1(1)

トゥキパスィ(棒酒箸)

お祈りする時はこのパスィにサケをつけて神々に捧げる

アイヌたちはこれをただの道具ではなく 
人間の願いを神に伝えてくれる雄弁な生き物だと思っていた
人間と神との仲介役だと思っていた

若い者たちが 何かで言い争っている時など 年寄りがこれでコツンとやると文句も言わず静かになる
大事なものだけに 工夫を凝らして作ったものが沢山残っている

棒酒箸1(1)

カムイカㇻオンネ(天寿)

天寿をまっとうしたような年寄りの弔いの時には使者にユカㇻを聞かせる

普通と違って一番面白いところから始めて 必ず最後まで語り終える
話の続きを聞きたさにこの世に戻ってこないよう心残りなくあの世に向かわせる

行った先 神の国でも不自由しないようにお椀や鍋・火打石・小刀と普段使っていたものもいっしょに葬った
イヨイタㇰコテ 引導渡しのことばとともに

天寿1(1)
  (左が女性の墓標 右が男性の墓標)

紹介したのは「二風谷アイヌ文化博物館」の一部でした


おまけ

先日 某小学校の学芸会を観賞した
昔は踊りと言えば「日本舞踊」であったが 最近は子どもを含めた若者に人気のダンスが学芸会で披露されている

今回はハワイの伝統的なダンスも披露されていた

ダンス1(1)

北海道の一部の小中学校では「アイヌ民族の文化・伝統」に関する授業が行われているが まだまだ充分とはいえない

外国の伝統ある踊りも悪くはないのだが 

日本の先住民族である「アイヌ民族の踊り」なども授業で取り入れ 
この様な場で披露してはどうなのか と感じた一日だった


アイヌ文化のふるさと「二風谷(にぶたに)コタン」その2

アイヌ文化のふるさと「二風谷(にぶたに)コタン」その2

「二風谷アイヌ博物館」

沙流川(さるがわ)流域に息づく アイヌ文化の継承「二風谷コタン」内には
1992(平成5)年に開館した 「二風谷アイヌ博物館」がある

アイヌ博物館2(1)

開館看板と入口ドア部分にはアイヌ文様が描かれている
なかなか雰囲気がある

アイヌ博物館3(1)
入口案内に置いてある 記念スタンプ

アイヌ博物館0(1)

中は 広く解放感があり
アイヌ文化を伝える様々なものが展示されている

アイヌ博物館5(1)

住居

アイヌの住居「チセ」
アイヌ博物館4(1)
「チセ」の外観は ほぼ長方形で大きいもので長さ5~6間(約9~11m) 幅2~3間(約4~6m)
柱は地面に埋められ固定され 
材料はナラ・カシワ・カツラなど4隅は特に太いものが使われた

柱と柱の間はヤチダモ・ナラのようなまっすぐな木が使われ 柱の上には梁と桁をわたして中梁が数本等間隔に縛られ 家枠の強度を高めている

屋根は四方向に勾配のつく寄棟造りで 
屋根や壁を葺いた材料はカヤ・ヨシ・ササ・樹皮など地方によって異なっていたようだ

「チセ」のまわりには生活や信仰に関わる付属施設が建てられ 
写真上のように 倉庫・動物の檻・便所・干し柵・祭壇などが主なもの

狩猟・漁労用具

アイヌ民族は狩りと漁労で食料を確保し 
また 和人との交易のため特定の動物を捕っていた
川ではサケ・マスが主体だが 
ウグイ・イトウ・ヤマメ・イワナなども捕っていた

サケは主食 しかし必要以上には捕らない 
保存用には産卵の終わったあとのサケを使い
漁が終わったら キツネやカラスの分を川のそばに残すことを忘れなかった

写真下左
これはマレク(突き鉤)と呼ばれるサケを突く道具
写真下右
2隻の丸木舟の間に網を張り サケを捕獲する方法もあった

漁労具1(1)

また海では 大型魚海獣の漁も行われていた
獲物はマグロ・メカジキ・オットセイ・イルカ・クジラなど
大型丸木舟も展示されていたが大型魚海獣の漁に使われたのかもしれない

漁労具2(1)

オットセイは食料の他 毛皮として和人との交易に使われた

山では ウサギ・キツネ・ムジナなどの小動物を捕獲していたようだ
クマやシカなども捕獲していた
クマは食用は勿論 毛皮は自分たちで利用するほか 和人たちとの交易に利用

写真左はクマを射止める「クワリ」と呼ばれる仕掛け弓 

右はテンを捕る「ホイヌプクペ」と呼ばれるわな
イモツ(いも)でテンを引き寄せ 石を乗せた罠が落ちてくる仕組みになっている

狩猟具1(1)

シカ猟は毒矢で射る方法など色々な方法があったらしい
シカの皮も珍重された

これは何の皮か 確認を忘れた

動物の毛皮1(1)

生活の道具

生活用具も数々展示
壁には アイヌ文様の盆が芸術作品として飾られていた

生活用具1(1)

次回に続く


アイヌ文化のふるさと「二風谷(にぶたに)コタン」その1


沙流(さる)川流域の平取(びらとり)町二風谷(にぶたに)は
アイヌの伝統が色濃く残る地域として古くから知られている

先日この「伝統文化を伝える集落」を訪れた
二風谷コタン2(1)

二風谷コタン1(1)
   (平取町観光協会・平取町役場発行パンフより)


その前に

この二風谷コタンは 二風谷(にぶたに)ダムに隣接している
このダムは沙流川の治水と日高地域への利水を目的に1997(平成9)年に完成した特定多目的ダム

建設に際し水没予定地は チプサンケと呼ばれるサケ捕獲のための舟下ろし儀式を始めとしてアイヌ文化が伝承される重要な土地であったため この地に住むアイヌ民族との軋轢が「二風谷建設差し止め訴訟」にまで発展し アイヌ民族の先住性を問う契機になったダム事業として知られている

訴訟を起こしたのは
参議院議員として国政に参与した故萱野(かやの)茂と故貝澤正 

萱野(かやの)茂 
元平取町議会議員 元参議院議員 二風谷アイヌ資料館創設
元世界先住民族サミット2008実行委員会最高責任者 
アイヌ文化研究社(博士) 
(金田一京助の影響を受けアイヌ語記録に着手 このころ知里真志保とも出会う)

貝澤正 
元平取町議会議員 元北海道ウタリ協会副理事長 

両氏はアイヌ文化を守るためダム建設に反対し
所有する土地の補償交渉に一切応じず 補償金の受け取りも拒否した

このため北海道開発局は法に基づき強制収用に踏み切った

これを不服とした両氏は「収用差し止め」を求めたが棄却
請求棄却に反発した両氏は札幌地裁に行政訴訟を起こした 
これが「二風谷建設差し止め訴訟」
 
この訴訟の真の目的は
アイヌ民族の現状を広く一般に認知させ アイヌ文化を国が保護・育成させることだった

1997(平成9)年ダムの建設が完了した後 札幌地裁は原告側の訴えを棄却した
しかし「土地取得に関し アイヌ民族の文化保護などを置き去りにして収用を行ったことは 法を逸脱している」として収用は「違法」と判断 
その上で既になされた収用裁決を取り消すことは「公益に著しい障害を生じる」として判決には違法は明記するものの 原告の請求を棄却した

この訴訟を契機として アイヌ民族を国の機関として初めて先住民族として認め
同7月に悪名高かった「北海道旧土人保護法」が廃止され 「アイヌ文化振興法」が成立した

また国は
1991(平成3)年に建てた二風谷アイヌ文化博物館を国庫補助でアイヌ文化・アイヌ語伝承や文化財保護の拠点として拡充させ チプサンケの代替地を8月に完成させた

1998(平成10)年には沙流川博物館が開館し 現在は二風谷アイヌ文化博物館とともにアイヌ文化の保護拠点となった

ダム建設が契機となり アイヌ民族の悲願が成就したが 萱野・貝澤をはじめとしたアイヌ関係者の血のにじむような苦労が この二風谷コタンに潜んでいる
(参考 ウィキペディア)

二風谷コタン

二風谷コタン3(1)

チセではアイヌ工芸の実演が行われていた

二風谷コタン4(1)
(チセとアイヌ文様の刺繍)

囲炉裏の上では保存食用とするためトウモロコシとウバユリの根(球根)が吊り下げられていた

二風谷コタン5-1(1)

ウバユリの根(球根)の保存食製造方法
球根を薄く剥がして搗(つ)き 発酵させて良質の澱粉をとる
これを一回茹でて ひもを通し乾燥させる

また工芸のチセでは刀の鞘や盆作りの実演が行われていた

二風谷コタン6(1)

コタンにはアイヌの生活の様子が分かるようなものが数々ある

写真下左は
アイヌ語で「プ」と呼ばれる高床式の倉
おもにヒエやアワなどの穀物の保存・貯蔵のために用いられ 足を長くした床は丸太を並べて通気性を良くするため
ネズミの侵入を防ぐために倉を登るハシゴは使うときにだけ立てかけ 柱に板や木の皮などでネズミ返しをつけることもあるようだ

穀物はトッタといわれる大きなかます(袋)に入れて「プ」の中に貯蔵し穀物の他に春から夏にかけて収穫した山菜類も乾燥させたあと冬のための保存食として蓄えていた
チセのまわりには倉だけでなく 祭壇 仔グマのオリ 便所などがおかれた

二風谷コタン7(1)
写真上右は「ペペレセッ」(仔グマのオリ)

アイヌの伝統的生業カレンダーでは 早春3月ごろ穴で冬眠しているクマをとる
仔グマは村に連れられ1年~2年ほど神の国から来たお客として養われる
仔グマは家の中で2ヶ月ほど暮らした後「ペペレセッ」に移され大切に育てられ 1歳から2歳になったころ神の国へ送り返すため 「イヨマンテ(クマ送りの祭事)」が村をあげて盛大に行われる
 
二風谷コタン内には
1992(平成5)年に平取町の博物館として開館した
「二風谷アイヌ文化博物館」がある

アイヌ文化博物館1(1)
(二風谷アイヌ文化博物館)

この博物館は次回に紹介する


北海道開拓の村 ~その13(最終回)~


北海道開拓の村に移築・復元された歴史的建造物の紹介
第13回 (最終回)

最終回は 山村群
山村群は市街地群と農村群の間に位置する山林部にある

この中には 
森林鉄道機関庫 旧平造材部飯場そして炭焼小屋の3つの建物が復元されている

山村群位置図4-1

森林鉄道機関庫

1919(大正8)年度から北海道庁が拓殖計画に国有林の直営伐採事業を加え 木材搬出のための森林鉄道の敷設を行った

後に 道内各地で建設が進み昭和初期には従来の流送に代わり鉄道運材が主流となり機関車や貨車のほか 機関庫・貯木場も整備された

旧所在地 常呂郡置戸町
建築年代 大正末期
復元年  1990(平成2)年
  
森林鉄道機関庫1(1)
建物は前後の大扉 排煙用の煙突(写真には写っていない) 小屋根が特徴

森林鉄道機関庫2(1)
(まだ走れそうな機関車が展示されている)


旧平造材部飯場

大正後期に下川村奥名寄の御料林内に建てられた造林飯場を再現

造林飯場は伐木や造材に関わった山子(やまご)や集・運材作業に従事した藪出し(やぶだし) 馬追いなどが山中で寝泊まりした小屋
この小屋では 40人ほどの山子と藪出しが生活し 馬追い飯場は別棟になっていた

旧所在地 上川郡下川町字一の橋
建築年代 大正末期
復元年  1990(平成2)年

旧平造材部飯場1(1)

北海道の造材事業は冬山造材が中心 飯場は一年ないし数年間使用されるだけ

飯場内部は寝床・通路・炊事場からなり 中に入って右側が山子 左が藪出しが寝起きする生活の場
娯楽の少ない山中では 作業を終えると炉を囲み酒を酌み交わすのが楽しみであったようだ

旧平造材部飯場2(1)


炭焼小屋

北海道は国内有数の木炭生産で 主に黒炭が生産された

炭窯(すみがま)の種類は多様であるが 明治・大正期の北海道では角窯が多く使われていた
一般に専業の炭焼きは大型の窯を 副業では小型の窯を使用され この炭窯は大正末期の副業製炭業者の角窯を再現したもの

建築年代 大正後期
構造   レンガ積平屋建
再現年  1990(平成2)年

炭焼小屋1(1)


村内では リスが木の実をくわえ走り回っていた

リス1(1)

北海道開拓の村は 
明治から昭和初期にかけて建築された北海道各地の建造物を54.2㌶の敷地に移築復元・再現した野外博物館 

        入村記念券2

13回にわたり紹介したシリーズはこれで終了


おまけ
北海道開拓の村に隣接する野幌森林公園(札幌市厚別区)の一角には北海道百年記念塔がある
1968(昭和43)年に北海道百年を記念して着工され 1970(昭和45)年に竣工 
翌年4月から一般公開されていた

100年記念塔1(1)

塔は25階建て 高さは百年に合わせ 100メートル

塔は「天をついて限りなく伸びる発展の勢い」を表し 壁面の凹凸は風雪と闘った歴史の流れを表現
塔断面は「北」の文字を 基部の平面は六角形の雪の結晶を形象している

しかし経年劣化により2014(平成26)年より 塔は立ち入り禁止となり
存続が検討されたが 2019(平成31)年に解体の方針が決定された

跡地には将来の北海道を象徴する新モニュメントの建設予定だが 解体時期はいまだ未定となっている


北海道開拓の村 ~その12~


北海道開拓の村に移築・復元された歴史的建造物の紹介
第12回

~農村群その2~

旧岩間家農家住宅

岩間家は 旧仙台藩の士族移民団の一員として1871(明治4)年に入植

写真の建物は1882(明治15)年に郷里の大工によって建築され 間取りなどに郷里の建築様式が取り入れられている
一方で 仙台地方にはあまり見られない石置屋根が採用されている

旧所在地 伊達市弄月町
建築年代 1882(明治15)年
復元年  1982(昭和57)年

44旧岩間家農家住宅1(1)

内部の様子 結構立派な造りのようだ

44旧岩間家農家住宅2(1)

旧河西家米倉

札幌厚別地区の米作は1883(明治16)年長野県からの移住者によって始められた
水田は付近の低湿地に造られ 明治20年代になり本格的に耕作されるようになった

この米倉は最初の移住者の一人である河西由蔵が建てたものを再現した

旧所在地 札幌市厚別区厚別
建築年代 1897(明治30)年
復元年  1986(昭和61)年
 
45旧河西家米倉(1)

旧樋口家農家住宅

樋口家は富山県から移住した農家で1893(明治26)年に入植し 5年後にこの家を建てた

富山出身の棟梁に建築を依頼し 郷里の建築様式である枠の内(わくのうち)造りを取り入れ 材料は近くの原始林から切り出した

復元に際しては同じ建築様式の山口家の解体材もあわせて使用した
* 枠の内造り:金物を一切使用せずに組み上げられたもの

旧所在地 札幌市厚別区厚別東
建築年代 1897(明治30)年
復元年  1978(昭和53)年

46樋口家農家住宅(1)

旧小川家酪農畜舎

大正末期に札幌農学校出身の小川三策(さんさく)がアメリカから取り寄せた設計図を参考に建築したもの

19世紀のバルーンヘレーム構造が特徴の建物
また軟石のサイロは 後に札幌厚別の農家より譲り受けて移築したもの

* バルーンヘレーム構造: アメリカの近代住宅の建築工法で 枠組壁工法の前身の工法らしい

旧所在地 札幌市清田区平岡公園東
建築年代 大正末期
復元年  1988(昭和63)年

47小川家酪農畜舎1(1)

47旧小川家酪農畜舎2(1)

旧菊田家農家住宅

1886(明治19)年新潟県長岡の有力者であった大橋一蔵や関矢孫左衛門などは 北越植民社を組織し野幌原野の開拓を計画した

この建物は その一員の新潟県魚沼郡出身者が移住直後の1893(明治26)年頃に建築し のちに同じく南蒲原郡出身の初代菊田常吉が買い受けて移築したもの

旧所在地 江別市西野幌
建築年代 1893(明治26)年頃
復元年  1988(昭和63)年

48旧菊田家農家住宅1(1)

内部には笛や太鼓があり 郷土の伝統芸能を伝承していたのかも

また家の周りにはリンゴの木などが沢山見られた 
果樹栽培をしていた農家なのかもしれない 

48旧菊田家農家住宅2(1)

開拓小屋

開拓小屋は開墾小屋とも称し 移住者が最初に建てた住宅
丸太を埋め立てて柱とし 桁や梁(はり) 垂木(たるき)をわたし 笹や茅(かや)などで屋根や壁を葺き 出入り口と窓にはムシロを下げた

屋内は一部が土間で 他は笹や枯草を重ねた上にムシロを敷いて居間とし 炉を設けた
明治期のものを再現している

建築年代 明治期
復元年  1990(平成2)年

49開拓小屋1(1)

アイヌの住宅チセと同じような造り
この小屋で 北海道の厳しい冬を越せたのが不思議だ

49開拓小屋2(1)

農村群の一角に ボクも知らない 稗(ひえ)や粟(あわ)・除虫菊などなど
「懐かしい作物」として育てられていた

懐かしい作物1(1)

懐かしい作物2(1)

農村群はこれで終わり

次回は最後の 山村群を紹介




北海道開拓の村 ~その11~


北海道開拓の村に移築・復元された歴史的建造物の紹介
第11回

漁村群につづき 今回は農村群の建築物 
~農村群その1~

農村群の位置図
漁村群位置図2(1)

旧山本消防組番屋

札幌山本地区にあった消防用具の格納庫
消防組織は1919(大正8)年頃からの自警団が前身で のち山本消防組となる
火の見櫓を持つ番屋は 農漁村の小規模な消防組織にみられ 防災や治安の中心であった

旧所在地 札幌市厚別区厚別町山本
建築年代 1925(大正末期)年頃
復元年  1986(昭和61)年

36旧山本消防組番屋(1)

旧若狭家たたみ倉

たたみ倉は道南の上ノ国(かみのくに)町周辺にみられる
倉は長方形の角材を積み重ねて外壁を作り 屋根をかける校倉(あぜくら)造り
漁家や農家が 家具や調度品・漁具・農具などを収納した

旧所在地 桧山郡上ノ国町字中須田
建築年代 1850(江戸時代末期)年頃
復元年  1986(昭和61)年

37旧若狭家たたみ倉(1)

旧ソーケシュオマベツ駅逓所

駅逓(えきてい)では人や荷物の運搬 農作業に馬が使われたので 付属する建物として厩舎(きゅうしゃ)が設けれれていた
この駅逓では1911(明治44)年約50ヘクタールの牧場と 8頭の官馬を持っていた

旧所在地 虻田郡喜茂別町双葉
建築年代 1915(大正4)年
復元年  1980(昭和55)年

38旧ソーケシュオマベツ駅逓所1(1)
馬車は現在観光用として線路を使い村内を周遊

厩舎にはレプリカの馬とともに 観光用の馬車を引く本物の馬2頭が食事中だった
38旧ソーケシュオマベツ駅2(1)

旧田村家北誠館養蚕種製造所

絹(糸)の原料となる蚕(かいこ)の卵(蚕種)をとる建物
浦臼町の養蚕(ようさん)伝習所教師が東京蚕業試験場の蚕室を参考に建築した
ここでは蚕種の製造販売を行うとともに 多くの養蚕技術者を養成した

旧所在地 樺戸郡浦臼町ウラウスナイ
建築年代 1905(明治38)年
復元年  1982(昭和57)年

39旧田村家北誠館三養蚕種製造所1(1)

所内では養蚕技術の説明 実演などが行われており また各種資料が展示されている
北海道全道各地で養蚕種の製造がおこなわれていたとは 知らなかった
39旧田村家北誠館養蚕種製造所2(1)

旧納内屯田兵屋

納内(おさむない)に屯田兵が入地したのは1895・1896(明治28・29)年
1875(明治8)年に始まった屯田兵は家族とともに兵村で暮らし 北辺の警備と農業開拓に従事した
当初は士族を募集したが1890(明治23)年からは主力を平民に移し 上川・空知・北見地方など北方内陸部に屯田兵村がつくられていった

旧所在地 深川市納内町
建築年代 1895(明治25)年
復元年  1985(昭和60)年

41旧納谷屯田兵屋1(1)

内部は質素な造りである
41旧納谷屯田兵屋2(1)

旧山田家養蚕板倉

開拓使は屯田兵の授産事業として養蚕を奨励し 琴似(ことに)兵村ではその成果が実って屯田兵の中には独自の養蚕施設を持つ者も現れた
この板倉は 屯田兵として入植した山田家が建てたもの

旧所在地 札幌市西区琴似1条6丁目
建築年代 1881(明治14)年
復元年  1985(昭和60)年

42旧山田家養蚕板倉(1)

旧信濃神社

間口が2本の柱で構成される「一間社流造」という様式で神社によく用いられる
旧所在地は 長野県諏訪地方の出身者が多かったので信濃開墾地と呼ばれ 神社を建立するにあたっては郷里の諏訪大社明神の御分霊をいただき 信濃神社と命名した

旧所在地 札幌市厚別区厚別中央4条3丁目
建築年代 1897(明治30)年
復元年  1980(昭和55)年

43旧信濃神社(1)

~農村群その2~ へつづく


北海道開拓の村 ~その10~


北海道開拓の村に移築・復元された歴史的建造物の紹介
第10回

北海道開拓の村は 明治から昭和初期にかけて建築された北海道各地の建造物を54.2㌶の敷地に移築復元・再現した野外博物館

今回は漁村群
見にくいが 案内図の左上に位置する

漁村群位置図1(1)
漁村群には
 「旧土屋家はねだし」「旧秋山家漁村住宅」「旧青山家漁家住宅」「廊下」の4件の施設が移築・復元されている

旧土屋家はねだし

はねだしは ニシン漁家の付属施設として海岸の地形に合わせて海側に跳ね出す形で建てられた倉
床の開口部を通して直接荷物を出し入れを行う
この倉は漁具・漁獲物・漁粕・身欠き鰊・数の子などの加工品を保管するために使用されたもの

旧所在地 八雲町熊石根崎
建築年代 1887(明治20)年
復元年  1986(昭和61)年

旧土屋家はねだし1(1)
(床下には2隻の磯船が見える)

旧秋山家漁家住宅

明治末期に秋田県男鹿半島から移住した秋山嘉七(かしち)の漁家住宅
洋風の棟飾りをもつ寄棟造
三代にわたり刺し網漁業 磯回り漁業を続け1978(昭和53)年まで住んでいた

旧所在地 羽幌町焼尻字白浜
建築年代 1920(大正9)年
復元年  1989(平成元)年

旧秋山家住宅1(1)

煮炊きする薪ストーブと囲炉裏の部屋がある
現代風に言えば3LDKの住宅 
旧秋山家住宅2(1)

旧青山家漁家住宅

青山家は1859(安政6)年に山形県から小樽へ移住し 小樽沿岸を中心に鰊建網(たてあみ)などを経営した
鰊建網経営には番屋をはじめ網倉・干場・船入澗(ふないりま)など多くの施設などを必要とした
鰊漁場の建物が集約されているところは少なく 重要な文化遺産の一つである

旧所在地 小樽市祝津町3丁目
建設年代 母屋1919(大正6)年 
     文庫倉・石倉・板倉1888(明治21)年
     米倉・網倉・外便所1887~1896(明治20年代)
復元年  1980(昭和55)年~1984(昭和59)年

8月下旬に訪れたときは建物外観は修復工事のため見ることができなかったので 冬(2月)の写真を使用

旧青山家漁家住宅1(1)

母屋は建網(たてあみ)2カ統 およそ60名の漁夫が寝泊まりした建物
中央の土間を挟んで 右側が親方の住宅 左側が漁夫(やん衆)の生活の場所

これは親方の住まいの部屋 番傘やら提灯が壁に取り付けられている

旧青山家漁家住宅4(1)

やん衆の居住部分 
はしごを登ると周りは ぐるりと寝床だ

旧青山家漁家住宅3(1)

ニシン漁が始まる前に 船頭から炊事係までこの漁場で働く者の名が全て掲げられる
一枚の板に筆書きされるが毎年 板はカンナがかけられ 新しくなる
旧青山家漁家住宅2(1)

下の写真は
ニシン粕と魚油を作るための道具
ニシン粕は本州の柑橘類の肥料としても使われたと聞く 

旧青山家漁家住宅5(1)

青山家元場(本拠地)には10数棟の建物が存在したが 7棟が移築
他には廊下・粕倉・船倉などがあった
建物は海岸に対して縦に一直線に配置したのは 狭い土地を一定の間数で地割した江戸時代末期以来の土地の利用形態によるものとのこと

旧青山家漁家住宅6(1)

廊下

廊下は陸揚げした鰊を一時収蔵するための施設
漁期後は 船・櫓(ろ)・櫂(かい)などの大型の漁労具や加工用具を収容する倉として利用された

廊下1(1)

廊下の中には枠船(わくぶね)が収蔵されていた
鰊建網漁では大量に漁獲した魚を枠船につり下げた枠網によって海岸近くまで運搬した

廊下2(1)

漁村群はこれで終わり 
次回につづく


プロフィール

KEARASHI

Author:KEARASHI
2013年10月リタイアをきっかけに、木彫・木工クラフト工房を開設しました。
木に新しい命を吹き込むという思いを込め、「萌樹工房」(もえぎこうぼう)と名付けています。
ブログでは、工房の様子や他の趣味等を載せていきます。

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