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「現存天守12城めぐり」最終回 ~まとめ~


「現存天守12城めぐり」 最終回 まとめの写真

令和元年(2019)6月7日から20日まで2週間の日程で
「現存天守12城めぐり」を実行

現存天守12城とは
国内の城の天守のうち 
江戸時代もしくはそれ以前に建設され現在まで保存されている天守のこと

天守の最初のものは織田信長が築造した「安土城」の天守といわれている
近代城郭は江戸時代初期までに3,000ほど造られたようであるが
江戸時代の「一国一城令」 明治時代の「廃城令」で数が減少
さらに戦火で多くが焼失した

そしてこの12城とは
弘前城(青森県) 松本城(長野県) 犬山城(愛知県)
丸岡城(福井県) 姫路城(兵庫県) 備中松山城(岡山県)
松江城(島根県) 彦根城(滋賀県) 宇和島城(愛媛県)
松山城(愛媛県) 高知城(高知県) 丸亀城(香川県) のこと

今回の「現存天守12城めぐり」では
12城のうち高知城(高知)と弘前城(青森)は以前見学しているので 
今回は省略 
そして松本城(長野)は日程上都合がつかず見送り

したがって 現存天守12城のうち9城を訪れた

この9城と 他の復元された城郭
及び関連施設などの写真をまとめて紹介

写真下 
左 松江城(島根県松江市) 右 松山城(愛媛県松山市)
1松江・松山・宇和島・丸亀城 (1)
写真上 
左 宇和島城(愛媛県宇和島市) 右 丸亀城(香川県丸亀市)

写真下 
左 備中松山城(岡山県高梁市) 右 姫路城(兵庫県姫路市)
2備中松山・姫路・彦根・犬山城(1)
写真上 
左 彦根城(滋賀県彦根市) 右 犬山城(愛知県犬山市)

写真下 丸岡城(福井県坂井市)
3丸岡城(1)(1)

そして「現存天守12城」以外の城

写真下 
左 岡山城(岡山県岡山市) 右 二条城(京都府京都市)
4岡山・二条城・名古屋・金沢城(1)
写真上 
左 名古屋城(愛知県名古屋市) 右 金沢城(石川県金沢市)

その他の立ち寄った施設も紹介

写真下 
左 京都御所(京都府京都市) 右 金閣寺(京都府京都市)
5京都御所・金閣寺・白川郷・永平寺(1)
写真上 
左 白川郷(岐阜県白川村) 右 永平寺(福井県永平寺町)

写真下 
左上下 平山郁夫美術館(広島県尾道市瀬戸田町)
右 一筆啓上日本一短い手紙の館(福井県坂井市)
平山美術館・一筆啓上日本一短い手紙の館(1)

大名庭園
写真下 
左 徳川園(愛知県名古屋市) 右上 兼六園(岡山県岡山市)
右下 玄宮楽々園(滋賀県彦根市)
5徳川園・兼六園・楽々園(1)

「現存天守12城めぐり」シリーズは 
これでとりあえず終了


「現存天守12城めぐり」 番外編13~永平寺~


「現存天守12城めぐり」 番外編13
~永平寺~

6月19日(水)
この日は金沢市を後に 「現存天守12城めぐり」の最後の城「丸岡城」を訪れ 「丸岡城」城下にある「一筆啓上日本一短い手紙の館」を見学
さらに
「永平寺」が近くにあることが分かり 予定外の見学となった

永平寺前の商店街駐車場から坂を登って行くとすぐ
石柱が目に入り 通用門の方へ進む

永平寺1 (1)

龍門(りゅうもん)を通る

永平寺2(1)

永平寺全景図がある
永平寺3(1)
  (永平寺全景図)

永平寺
寛永2年(1244)に道元禅師によって開かれた曹洞宗の寺院で座禅修行の道場
道元禅師は正治2年(1200)京都にて出生
14歳で比叡山にて出家
24歳の春 生涯の師を求め中国に渡る
天童山如浄(てんどうざんにょじょう)禅師のもと厳しい修行に励まれ
「正伝の仏法」を受け継がれる
28歳で帰国 34歳の時京都深草にて興聖寺(こうしょうじ)を建立
その後越前の国(福井県)に移り永平寺を開いた

これが通用門
永平寺4(1)
  (永平寺通用門)

中へ入るとすぐ吉祥閣(きちじょうかく)
吉祥閣は檀信徒や一般人を対象とした研修道場として昭和46年に建てられた
部屋の一角には屏風がある

永平寺5(1)
  (吉祥閣)

続いて隣の傘松閣(さんしょうかく)

昭和5年に創建 さらに2年をかけ再建され
さらに平成6年(1994)に改築された

一階は参拝者の控室や研修・宿泊のための部屋
二階は156畳敷きの大広間で 「天井絵の大広間」と呼ばれ
天井には創建当時の著名な144人の画家による230枚の色彩画が飾られている

永平寺6(1)
  (傘松閣)

永平寺7(1)
  (天井絵)

回廊(かいろう)

永平寺は大小70余りの建物が並んでいるが 
中でも「七堂伽藍(しちどうがらん)」という僧侶が修行する清浄な7つの場所があり
この特に主要な伽藍が回廊で結ばれている

永平寺8(1)
   (回廊)

この「七堂伽藍」とは「法堂(はっとう)」「仏殿(ぶつでん)」「僧堂(そうどう)」「庫院(くいん)」「山門(さんもん)」「東司(とうす)」「浴室(よくしつ)」をさす

山門(さんもん)仏殿(ぶつでん)

山門は七堂伽藍の中で最も古く寛永2年(1749)の造立
中国唐時代様式の楼閣門 両側に仏教の守護神である四天王が安置されている

仏殿は曹洞宗の本尊であるお釈迦様(釈迦牟尼仏)が祀られている
永平寺で修業する雲水たちの昼の読経や日中諷経(にっちゅうふぎん)と午後のお勤めはこの仏殿で行われている

永平寺9(1)
 (山門と仏殿)

仏殿(ぶつでん)

永平寺10(1)
  (仏殿)

法堂(はっとう)への回廊
長い階段式回廊を渡っていく

永平寺11(1)
  (回廊)

法堂(はっとう)

住持が法を説く道場
正面外には「法王法」の額が掲げられており 

永平寺17(1)
  (回廊からの法堂)

中央には「聖観世音菩薩」が祀られ
現在は説法のほかに朝課などの各種法要儀式が行われている

永平寺12(1)
  (法堂)

法堂(はっとう)内の様子

永平寺13(1)
  (法堂)

法堂(はっとう) 大光明蔵(だいこうみょうぞう)

総檜本造りで桃山時代の形式に準じた建物
大広間では永平寺貫首が公式に来山寺院や檀信徒と相見する室

永平寺14年((1)
  (大光明蔵)

吉祥閣(きちじょうかく)の五則
吉祥閣は檀信徒や一般人を対象とした研修道場で昭和46年(1971)に建てられ
こんな規則があるようだ

永平寺15(1)
  (吉祥閣の五則)

大庫院(だいくいん)の一部で瑞雲閣(ずいうんかく)

大庫院には食事の作法を学び 
修行僧や参籠者の三度の食事を作る台所がある

瑞雲閣には一般参篭者の宿泊に充てられる和室や応接室がある

永平寺16(1)
  (瑞雲閣)

大庫院の前にある「長いすりこぎ」
長さ4m もともとの色は黒 みんなに撫ぜられて色が落ち 木目が見える

永平寺21(2)
  (長いすりこぎ)

承陽門(しょうようもん)と承陽殿(しょうようでん)

承陽門をくぐると承陽殿
承陽殿の本殿中央に道元禅師の尊像と霊骨を安置 
左右に2代から5世までの尊像が祀られている
承陽門の破風が見事だ

永平寺18(1)
  (承陽門と承陽殿)

寺院内の伽藍(がらん)

永平寺19(1)

商店街風景

それぞれの商店で駐車場を持ち
一定金額のお土産を買うと無料となっている

永平寺20(1)
(商店街風景)

駆け足でのお参りだった
「永平寺」すべてを観るには一日でも足りない

「現存天守12城めぐり」もこの日で終了

永平寺から舞鶴港へ行き 
23時50分発小樽港行きのフェリでー翌日6月20日夜に到着
2週間の旅は終わった

次回はこの旅シリーズのまとめで「最終回」としたい


「現存天守12城めぐり」 番外編12~一筆啓上日本一短い手紙の館~


「現存天守12城めぐり」 番外編12
一筆啓上日本一短い手紙の館

「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」
これは
徳川家康の功臣で「鬼作左」と呼ばれた本田作左衛門重次が陣中から妻へ宛てた手紙
家族を愛し 忠義を尽くす思いが短い文の中に簡潔に込められている

「お仙」が初代丸亀藩主本多成重であったことから 
平成5年(1993)に この手紙をモチーフに「一筆啓上賞」が誕生 そして公募が始まった

 第一回は「日本一短い『母』への手紙」 公募は今年で27回を迎えている

「一筆啓上賞」の入選作品は出版される本でしか見ることができなかったが
常設展示するための施設が平成27年(2015)に開館した

その施設名は 「一筆啓上 日本一短い手紙の館」

一筆啓上賞1(1)
  (一筆啓上 日本一短い手紙の館)

『一筆啓上日本一短い手紙の館』から見上げた丸岡城と城から見下ろした館

一筆啓上賞3(1)
  (丸岡城と城から見下ろした館:赤丸内)

常設展示室

館内では 第一回からの受賞作品を展示

モニター画面からはこれまでの作品が滝のように表示される映像があり
また 大きなパンネルにより展示されている

一筆啓上賞4(1)
  (常設展示)

平成15年(2003)からは「新一筆啓上賞」の公募を行っている
 
これまで「母」「父」をテーマにした手紙の募集が数回あり
このような手紙が目に付いたので紹介

一筆啓上賞5(1)
 (「母」「父」をテーマにした手紙の入賞作品」)

また企画展示室では
愛知県西伊予市の「かまぼこ板の絵」と「日本一短い手紙」が出会い 
コラボした作品が展示されていた

一筆啓上賞6-1(1)

クラス会にも安心して行ける 励まされる手紙だ
よしツ!失禁パンツの予備も持っていこう

一筆啓上賞7(1)

これはよくある話の手紙 
ボクも足手まといにならぬようにしょう 美人はどんな表情でも美人?

一筆啓上賞8(1)

これまで「一筆啓上賞」に140万通の手紙が寄せられているとのこと

入場券と「しおり」

この施設の 入場券は「丸岡城」「丸岡歴史民俗資料館」と共通になっており
入場券の袋の中には「しおり」が入っていた

入場券と「しおり」を抜いた状態の写真

一筆啓上賞9(1)
  (入場券)

坂井市丸亀町は 
織ネーム(タグ・ワッペン)や織テープなど細幅織物の産地で
全国の7割を生産しているそうだ 
「シャツの後ろ首の所に付いているタグ」と言えば分かり易いか

「しおり」は まちのPRを兼ね タグを利用して作ったオリジナル
アイディアが素晴らしく 使う度に思い出す

一筆啓上賞10(1)
  (入場券から取り出した 「しおり」)

一筆啓上賞は毎年書籍となっており お多福が2冊購入してきた
1冊は   第7回平成11年(1999) 一筆啓上賞作品 テーマ{友へ」
もう一冊は 第8回平成12年(2000) 一筆啓上賞作品 テーマ「私へ」

一筆啓上賞11(1)

今年も第27回「一筆啓上賞」日本一短い「春夏秋冬」への手紙を募集している
募集は1~40字までの手紙形式
年齢問わず全国に呼び掛けし 締め切りは10月11日(金)

とても素晴らしい施設を見せてもらった

「現存天守12城めぐり」 ~丸岡城~


「現存天守12城めぐり」 第9弾 ~丸岡城~

6月19日(水) 
金沢市から「現存天守12城めぐり」最後の城「丸岡城」へ

丸岡城2(1)
  (城下ふもとから見上げた丸岡城)

駐車場のある城山のふもとには
「一筆啓上茶屋」(お土産屋・レストランなど)の建物がある
この町は 日本一短い手紙
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」 
で有名なところ

丸岡城1(1)
  (一筆啓上茶屋)

丸岡城PRキャラクターの「城丸くん」が出迎え
階段を登って行くと 「一筆啓上賞」が展示されていた

丸岡城3 (1)
(城への階段と一筆啓上賞受賞作品の展示)

昨年度のテーマは「先生」だったようだ

「先生」へ 
先生はみんなに うそをついたらいけないっていうのに
歳をごまかすのはよくないよ

・・・なかなか 鋭いところをついている

丸岡城が見えた
二重三階の望楼型天守と野面積(のづらづみ)天守台の石垣が残るだけであるが
丸岡城は現存する天守の中で最も古い
天正4年(1576)柴田勝家の甥勝豊が築いたとされている

天守の屋根瓦は石製で 天守に石瓦を使用した現存例はここだけ
石瓦が使われているのは 
瓦が凍結して破損することを防ぐための知恵らしい

丸岡城4(1)
  (丸岡城)

天守は昭和23年(1948)福井大震災により倒壊したが
昭和30年(1955)に修復再建された

石製の鯱(しゃち)

下の鯱はもともと木製銅板張りであったものを昭和15~17年の修理の際に石製の鯱に改めたもの
当時は戦禍中で銅板が入手できず やもなく天守の屋根瓦と同質の石材で作り変えられた

この石製の鯱も福井大震災により棟より落下し このような形で残っている
一方現在の天守の鯱はもとの木製銅板張りに復元されている

丸岡城6(1)
  (石製の鯱)

一階内部
一階内部には各種資料が展示されている

丸岡城7(1)
  (一階内部)

二階内部  

丸岡城8(1)
  (二階内部)

天守最高階

三階への階段は相当きつい勾配
この日学習に来ていた 子どもたちも慎重に階段を降りていた

この階にボランティアガイドがいて 色々説明をしてくれた 
町の財政も厳しく 昨年冬の大雪で屋根に積もった雪を自分たち総出で降ろしたとか

現存天守12城の中で国宝になっていないのは7城 
単独で国宝指定の運動展開するより 残った7城が揃って活動しなければならないと話していた

丸岡城9(1)
  (天守最高階)

天守最高階天井の間には四方に窓があり 回廊も付いている
本丸から18m 城山のふもとからは約35mの高さ

丸岡城10(1)
  (天守最高階からの展望) 

野面積の石垣

石垣はすき間が多く見た目は粗雑ながら 排水がよく大雨で崩れる心配がないと言われている

丸岡城11(1)
  (石垣の様子)

柴田勝豊の後 城主は安井氏 青山氏 今井氏を経て慶長18年(1613)本田成重に代わったが4代で改易
元禄8年(1695)有馬清純が5万石で入城 幕末まで8代続いた

次回は「一筆啓上日本一短い手紙の館」を紹介


「現存天守12城めぐり」 番外編11~兼六園~


「現存天守12城めぐり」番外編11~兼六園~

兼六園

「兼六園」は岡山市の後楽園 水戸市の偕楽園とならんで
日本三大名園の一つ
金沢市のお堀通りを挟んで 金沢城とは逆の南側にある

兼六園図1(1)
  (兼六園案内図)

「兼六園」はもともと金沢城の外郭として城に属した庭で 
江戸時代を代表する林泉回遊式大名庭園
(回遊式庭園とは園内を回遊して観賞する庭園)

延宝4年(1676)
加賀藩4代藩主前田綱紀(つなのり)が金沢城に面する傾斜地に別荘「蓮池御殿」(れんちごてん)を建て その周辺に作庭したのが「兼六園」の始まり 
当時は「蓮池庭」(れんちてい)などと呼ばれていた

兼六園3(ことじ灯籠)(1)
  (霞ヶ池と ことじ灯籠)

宝暦9年(1759) 大火で「蓮池庭」も一部焼失 荒廃した
11代藩主治脩(はるなが)は復興に取り組み 
安永3年(1774)今に見る夕顔亭や翠滝(みどりたき)を築造

文政5年(1822)12代藩主斉広(なりなが)の隠居所「竹沢御殿」を築造
その庭に辰巳用水を取り入れて曲水をつくり 各種の石橋を架けた庭園が完成

兼六園4(1)

この年
松平定信が中国宋の詩人李格非(りかくひ)の書いた「落陽名園記」の文章から採って「兼六園」と命名したそうだ

兼六園1(内橋亭)(1)
  (内橋亭)

また 「竹沢御殿」を取り壊した13代藩主斉泰(なりやす)は 
霞ヶ池を掘り広げ 曲水の新たな取り入れも行い 以前からあった「蓮池庭」と調和するよう作庭 
現在の形に近い庭園を築いた

兼六園2(時雨亭)(1)
  (時雨亭)

廃藩後明治7年(1874)「兼六園」が一般開放
昭和60年(1085)には「特別名勝」に指定された

兼六園5(1)

兼六園6(1)

園内では 結婚を前にした写真撮影か 

兼六園7(1)
  
園満でありますように 円満に・・・か

* 写真は「兼六園」内の一部のみ


「現存天守12城めぐり」 番外編10~金沢城~


「現存天守12城めぐり」 番外編10 金沢城

6月18日(火)
輪島朝市を見学後 金沢市を目指した

午後1時半到着
金沢城と兼六園を見学

「お堀通り」を挟んで北側が「金沢城公園」で 南側が「兼六園」

金沢城2-1(1)
  (金沢城公園マップ)

加賀百万石前田家の祖前田利家は尾張の土豪前田利昌の四男
織田信長に従い大名としての基を築き
前名は又左衛門 槍の名手であったことから「槍の又左」とも呼ばれた

秀吉と提携し 天正11年(1583)金沢城に入城し 
天正14年(1586)に天守を築城したと伝わる

慶長7年(1602)落雷により 天守・本丸の建物が焼失
寛永8年(1631)城下の大火・本丸御殿類が焼失し
本丸の機能を次第に二の丸へ移した

金沢城へは兼六園側から石川橋を渡っていく
この石川橋の下が「お堀通り」で今は幹線道路 当時は名の通り金沢城の「お堀」だった

金沢城3(1)
  (石川橋 橋の向こうに石川門が見える)

石川門
金沢城の搦手門(からめてもん=裏)として重要な位置にあり 河北門・橋爪門とともに「三御門」と呼ばれる
宝暦の大火(1759)の後 天明8年(1788)に再建され現在に至る

金沢城4石川門(1)
  (石川門)

門は欅(けやき)に鉄具が張られ 門の左右は白漆喰の海鼠(なまこ)塀 

門の右には唐破風の出窓(だし)があり ここから侵入者に鉄砲で攻撃 石落としもある
この出窓(だし)を何故 門の真上に設置しなかったのか 
その理由は 門を綺麗に見せるためだったとか

また門の石垣の積み方が左右違うのが珍しい
右側は「切石積み」 左側が「粗加工石積み」 昭和2年(1765)改修時のものと考えられている

金沢城5(1)
  (石川門 左右積み方が違う石垣)

石川門から三の丸に入り 右側には 
三御門のうち二つ目の門 河北門がある
金沢城の実質的な正門で 
高麗門の一の門 櫓門の二の門 桝形土塀で構成された桝形門
平成22年(2010)に復元されている

金沢城8(1)
  (河北門)

三の丸広場からは 圧倒させられる景色が目に入る

二棟の三層三階の物見櫓「菱櫓」と「橋爪門櫓」を二層二階の倉庫「五十間長屋」でつないだ建築物
平成13年(2001)に復元され明治以降に建てられた木造城郭建築物では国内最大規模
一間は6尺(1.82m)だから 「五十間」は90m以上の長さになる

この建築物の形体は
寛永8年(1631)の城下の大火・本丸御殿の焼失以降に整備されたと考えられている

  金沢城6
(右に菱櫓(ひしやぐら) 左に橋爪門続櫓(はしづめもんつづきやぐら) その間に櫓をつなぐ五十間長屋)

建物の役割は加賀藩の政治の中心で 藩主の住居でもあった「二の丸御殿」を守ることであり
長屋は石垣や土塁の上に建てられた最大建造物で防御と倉庫などの役割を兼ねていた
「櫓」は「矢倉」とも書かれ 武器などの倉庫に使われ 
見張りの役目も持っていた

金沢城7(1)
  (上 菱櫓・下 橋爪門続櫓・ 五十間長屋)

宝暦9年(1759)・文化5年(1808)にも大火を受けるが 
その都度再建され明治期まで存続
しかし明治14年(1881)にも 二の丸御殿・橋爪門・五十間長屋等焼失

橋爪門橋爪門続櫓

橋爪門は二の丸の正門として最も格式の高い門
平成27年(2015)に復元された

金沢城9(1)
  (橋爪門一の門と 下 橋爪門続櫓)

橋爪門続櫓は二の丸大手の橋爪門桝形に付随する三層の物見櫓で 三ノ丸で戦闘が起きた時の指揮所

橋爪門二の門番所

橋爪門は二の門の内部に番所が置かれ 二の門櫓(二階)への出入りは番所内に設けたの急勾配の階段から出入りしていたと考えられている 
中には畳が敷かれ 門の通路側は板戸となっている

金沢城10(1)
  (橋爪門二の門と番所の急階段)

橋爪門を通ると二の丸
二の丸には「二の丸御殿(千畳敷御殿)」があったが 
明治14年(1881)橋爪門・五十間長屋などとともに焼失し 
現在は「二の丸広場」となっている

二の丸から見た五十間長屋と菱櫓は素晴らしい眺め
美を追求した建物だ

屋根が白く輝いているのは 鉛瓦(なまりがわら)が酸化し 白くなったから

金沢城11(1)
  (二の丸から見た五十間長屋と菱櫓)

五十間長屋

平成13年(2001)に復元され
木材は
柱はヒノキ 床壁小さな梁は 能登ヒバ 二階丸太梁 マツ 
二階梁上の小屋組 スギ 大断面の梁(一部)は米ヒバを使っている

五十間長屋は建物の長さが五十間あることから名付けられ
武器や非常日の食料などを保管する倉庫として利用されていた

往時の金沢城には現存する三十間長屋をはじめ 
四十間長屋・七十間長屋・九十間長屋と呼ばれるものがあったようだ 

金沢城12(1)
  (五十間長屋内部)

発掘物も五十間長屋に展示されている

金沢城15(1)
  (城内の発掘物)

鉛瓦(なまりがわら)

瓦は鉛の瓦を使っており 
「荷重の軽減」「美しく見せる」「加賀で鉛が余った」など
また「戦の時に鉛を溶かして銃弾に加工した」など 色々な説が・・・

金沢城16(1)
  (鉛瓦)

菱櫓(ひしやぐら

菱櫓は3層3階 高さは17.34m
構造は床・天井・柱・針の断面などが菱形
つまり部屋が菱形に造られ 部屋四隅の角度が80度と100度
その理由は 正門の大手門と搦め手門の石川門の両方を同時に広い視野で監視するため角度を開き菱形にした
つまりパノラマの視野にするためという説が有力 高い技術が必要とされた

金沢城13(2)
  (菱櫓内部) (観光客が四方八方から攻撃されるところ)

金沢城17(1)
  (櫓からの景色)

金沢城14(1)
  (堀に面にした五十間長屋)

さて 本丸には安政五年(1858)に再建された三十間長屋が残っている
倉庫として使われた建物で 屋根には鉛瓦を使っている
白くなるので 美しく見せるためとも言われてている

金沢城址には平成7年(1995)まで金沢大学丸の内キャンパスがあったが 郊外に移転
問題の天守は何処にあったのか 全く分かっていない

慶長7年(1602)落雷による天守の焼失後 天守の再建はなかった
利家没後 二代藩主利長(としなが)はこじんまりとした三階の櫓を建てただけ

幕府が外様大名を改易・取り潰して城を奪っていく時代の中で 生き残るために 
政治に触らず 目立たぬよう文化だけに力を入れ
「美を極める」ことに重きを置いた

三代藩主利常(としつね)は本丸に「辰巳櫓」を建てた
これは京都西本願寺の飛雲閣と同じように同じ階に千鳥破風と唐破風の屋根を作った櫓である

西本願寺飛雲閣1-1(1)
  (京都西本願寺飛雲閣の千鳥破風と唐破風)

金沢城の随所にみられるような美
加賀にしかない文化を作ること

「美へのこだわりを極めることは家を守ること」
文化が花開いた京都への特別な思いから 「金沢を京都にする」
「目立たぬことは安泰につながる」との信念をもっていた

このような説があるようだ



「現存天守12城めぐり」番外編9~能登小牧台から輪島朝市~

「現存天守12城めぐり」
番外編9 能登小牧台から輪島朝市

能登小牧台

前日(6月17日)世界遺産岐阜県「白川郷合掌造り集落」を見学後
能登七尾市の宿への途中能登島を一周(6月19日付「ブログ瀬戸大橋を車で初めて渡る」の後半)

夕方宿に着いた 
この日の宿泊は「国民宿舎能登小牧台」
これまでホテルのツインルームに泊まっていたが この宿には和室を予約していた

月曜日ともあって宿泊客が少ないのか 
和室プラス洋室のデラックスルームを用意してくれた

能登小牧台1(1)
  (国民宿舎「能登小牧台」)

この部屋からは湾が見渡せ 
湾には牡蠣(かき)養殖の筏(いかだ)が数多く浮かんでいた

能登小牧台2(1)
  (部屋から湾の景色)

この日も天候に恵まれ 
日没とともに月が輝きだし 海面に月のあかりが反射

能登小牧台3(1)
  (日没と海面に写る月明かり)

温泉風呂に浸かり 疲れを癒やしたところで

6月18日(火) 
この日の目的地は金沢 
その途中 輪島朝市を見学することに

輪島朝市
輪島朝市1(1)
  (朝市商店街図)

石川県輪島朝市は 
勝浦朝市(千葉県勝浦市) 高山朝市(岐阜県高山市)と並ぶ三大朝市
残念ながら函館朝市はこの中には入っていない

歴史は古く 平安時代から行われており 
神社の祭礼日などに生産物を持ち寄り 物々交換し合ったのが始まり
明治時代から毎日市が立つようになったようだ
ということは 千年以上の歴史があることになる

朝市通り

朝市は8時から12時まで
約360mの商店街で毎朝行われている

朝市の店舗はほとんどが露店
朝市露店営業は 朝市組合に入らなければ権利が得られない
現在は200以上の露店が立ち並んでいる

多くの観光客が訪れているが この日
訪れたのは10時前 それ程混んでいなかった

輪島朝市2(1)
  (輪島朝市通り)

日本海に面し 水産業でも発展した輪島市 やはり魚がメイン
平成の初めには300名を超える組合員がいたが 現在は260名あまりで
高齢化により出店できなくなる組合員が多くなる一方で 若い組合員も増えているようだ

朝市に一番似合っている光景がこれ

輪島朝市7(1)
  (鮮魚類の露店 魚とカニ)

「おにいさん 魚買ってきな!」と言われ 
「旅行中だから無理」 と言ったら
「送ってやるよ!」 元気な母さんたちばかり

水産加工品を扱う露店が多い

輪島朝市6(1)
(水産加工品の露店)

魚介類をはじめ海藻類加工品の種類が豊富
北海道ではあまり見られない
「カラスミ(ボラの卵巣)」「のどぐろのふりかけ」
「飛び魚のダシ」「「むしあわび」などがあり

輪島朝市4 (1)
(水産加工品の露店)

「焼貝のひも」「焼きほたて」などの珍味類も豊富
しかも「Pay Pay」も使えるよ 進んでるね

これが
「ふぐの卵巣」の加工品

卵巣には猛毒があるため 2~3年塩漬けにして毒を抜き
加工品にする
写真は「ふぐの子糠漬」と「ふぐの子クリームチーズ」

輪島朝市5(1)
  (ふぐの子糠漬とふぐの子クリームチーズ)

このような所を歩いていると 
いつも「おにいさん」とか「社長」などと言って呼び止められることが多い

「そこの父さん」とか「そこのおじいさん」と言われるより確かに気分は良いのだが
その気になって その都度買っていたらキリがなくなるので
「そこそこ」にしておくことが肝心だ

木工品などもある
輪島市は「輪島塗」で有名 カップは「輪島塗」かも

見事な「お面」もある
孫が怖がりそうな「お面」だ

輪島朝市3(1)
(木工品とお面)

地酒類も豊富
「白駒」という酒蔵の酒が沢山並べられてある

左側に「おれの酒」とラベルが張られた酒があるが
注がれるものにとっては ちょっと遠慮がちに飲まなければならないような
そんな名前の酒だ

輪島朝市8(1)
(白駒酒造店)

市民の台所から観光名所として時代ごとの役割を担ってきたが
ライフスタイルの変化や大型店の進出・農産物直売所の整備などにより
「買う朝市」から「観る朝市」へと変化が著しくなっている とホームページにも載っている

朝市の将来像を描きながら 実現に向けた取り組みを行っているとのこと

是非
朝市文化を継承してもらいたいものです

p.s
この日(6月18日)の夜 金沢市で宿泊中新潟県北部で地震が発生 
震源地は確か震度6弱
この時 金沢では震度1の揺れを感じたが 
前日(17日)に宿泊した能登では震度3を記録していた

お多福との旅行先での地震体験は多くあり
中でも最大の経験は平成5年(1993)の北海道南西沖地震(奥尻島沖の地震)
この時は道南大沼公園のホテルに宿泊していた ここでは震度5で
翌日はあちこち道路が崩壊しており ようやく家までたどり着いたことを思い出した

・・・余談・・・でした



プロフィール

KEARASHI

Author:KEARASHI
2013年10月リタイアをきっかけに、木彫・木工クラフト工房を開設しました。
木に新しい命を吹き込むという思いを込め、「萌樹工房」(もえぎこうぼう)と名付けています。
ブログでは、工房の様子や他の趣味等を載せていきます。

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