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「現存天守12城めぐり」~彦根城~

「現存天守12城めぐり」 第7弾 「彦根城」

6月15日 
京都から彦根城へ名神高速道で1時間20分ほどで到着
二の丸駐車場に車を止め 城内へ

駐車場付近には二の丸佐和口多門櫓と彦根城馬屋がある
丸佐和口多門櫓は明治に再建されたもので
 
馬屋は藩主などの馬が繋がれていたところ
城内に残る馬屋は彦根城にしかない珍しい建物

彦根城1-1(1)
  (上 二の丸佐和口多門櫓と 下 彦根城馬屋)

彦根市のキャラクター「ひこにゃん」が出迎え

彦根城2-1(1)

天守目指して 登って行くと 続櫓(つづきやぐら)と太鼓門が目に入る

彦根城2(太鼓門・続櫓)(1)
  (続櫓(つづきやぐら)と太鼓門)

太鼓門をくぐると 廊下橋・天秤櫓
戦時には廊下橋を落として敵の侵入を防ぐと伝わる
建物土台の石垣は右側が築城当時の打ち込みハギ積 左側が改修した落とし積

彦根城3(廊下橋・天秤櫓)(1)
  (廊下橋・天秤櫓)
天秤櫓とは櫓の左右に二重櫓を配した形から称されている

さらに本丸へと昇る

彦根城6(1)

天守が見えた

彦根城4(天守)(1)
  (彦根城天守)

彦根城は徳川四天王の一人井伊直政が琵琶湖湖畔の磯山(いそやま)に築城を計画
直政の死後遺志を継いだ子の直継(なおつぐ)が彦根山(金亀山)に慶長12年(1607)に完成
別名「金亀城(こんきじょう)」

天守は三重三階 華麗な装飾を施された天守は明治維新の廃城令も戦災もまぬがれた
城本来の機能である軍事面でも優れており
現存天守の中でも最も多くの破風に飾られた天守
種類も入母屋破風 唐破風 切妻破風と多様

昭和27年(1952)に国宝指定
国宝天守は彦根城以外は姫路・松本・犬山・松江城だけ

彦根城7(1)
  (内部の様子)

平時は外から見えないように漆喰壁で塗りこめられており 戦時には壁を突き破って使用する

彦根城8(1)
  (内部の様子)

天守北側の附櫓と多門櫓の壁は鉄砲玉から守るために二重壁として 間に栗石を詰め防弾効果を高めている

彦根城9(1)
  (内部の様子)

多様な唐破風を設けたため4~5人が入れる隠し部屋と呼ばれる部屋が4ヶ所あり
天守内には82箇所もの鉄砲・矢狭間を備えている

彦根城10(1)
  (天守からは琵琶湖が望まれる)

国名勝 「玄宮楽々園(げんきゅうらくらくえん)」

彦根城の北東にある大池泉回遊(だいちかいゆう)式の旧大名庭園
延宝6年(1678)に彦根藩4代藩主井伊直興が整備
彦根藩の二の丸御殿で槻御殿(けやきごてん)と呼ばれていたそうだ

江戸時代後期の文化10年(1813)には第11代藩主井伊直中の隠居屋敷として再整備されている

玄宮楽々園3(1)
  (玄宮園)

庭園部分を「玄宮園」 屋敷部分を「楽々園」と呼び分けている

屋敷は数寄屋建築で現在も整備中であったが内部は開放されている
開国の英傑井伊直弼(なおすけ)も1815年父直中の14男としてこの屋敷で生まれているそうだ

玄宮楽々園1(1)

玄宮楽々園2(1)
  (楽々園 屋敷の様子)

玄宮楽々園からの彦根城の景観もまた素晴らしい

彦根城12(1)
  (玄宮楽々園からの彦根城)


「現存天守12城めぐり」番外編4~金閣寺~

「現存天守12城めぐり」番外編 第4弾「金閣・鹿苑寺」

6月14日 「二条城」から「金閣寺」へ
「二条城」「金閣寺」を訪れるのは高校の修学旅行以来 
あれから半世紀も過ぎている

「金閣寺」は正式名称「金閣・鹿苑寺(ろくおんじ)」で 臨済宗相国寺派の禅寺
お釈迦様の舎利(お骨)をまつっている舎利殿「金閣」が特に有名なため一般的に「金閣寺」と呼ばれている

建物内外の金箔を貼った三層の桜閣建築 
眩しいほどである

金閣寺1(1)
  (金閣・鹿苑寺)

寺名は創設者の室町幕府三代将軍足利義満の法号「鹿苑院殿」にちなんでいる

この地は鎌倉時代に西園寺公経(さいおんじきんつね)の別荘「北山第」があり
足利三代将軍足利義満がこの別荘「北山第」を気に入り 応永4年(1397)に西園寺家から譲り受け 山荘「北山殿」を造った

総門(そうもん)
海外からの観光客も多く この日も団体客が入り込んでいた

総門1(1)
  (金閣・鹿苑寺総門)

境内には様々な施設等があるが 写真に撮ったものだけを紹介

境内図1(1)
  (案内板)

唐門(からもん)
小雨が降ってきたがすぐ上がった

唐門2(1)
  (唐門)

庫裏(くり)
禅宗特有の様式建物で 切妻造りで明応・文亀年間(1492~1504)のもの

庫裏2(1)
  (庫裏)

龍門(りゅうもん)の滝
この滝は23mもの高さを一段落としにしたもので 龍門の滝を鯉が登りきると龍に化するといわれる中国の故事登龍にちなんだ鯉魚石(りぎょせき)が置かれている
いままさに跳ね上がらんとする龍の姿が滝壷の所に斜めに傾いた動きのある石で表現されているようだ

龍門の滝2(1)
  (龍門の滝)

金閣寺垣(きんかくじがき)
龍門の滝左側山畔に石段があり この小さな石橋を虎渓橋(こけいきょう)といい 
その両側に低い竹垣があり
これが金閣寺垣と称され小竹垣の代表とされている

金閣寺垣2(1)
  (金閣寺垣と虎渓橋)

銀河泉(ぎんがせん)
金閣の後ろを進むと銀河泉(ぎんがせん)があり ここの水を義満がお茶の水に使ったと伝えられている
いまも清冽な清水が湧き出している

銀河泉2(1)
  (銀河泉)

金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世に表したと言われ 後小松天皇(一休禅師の父)を招き また室町幕府は中国(明国)との交易を盛んに行い 北山文化の中心として発展した

金閣寺2(1)

鏡湖池(きょうこち)を中心とし 葦原島など大小の島々や当時の大名が石を献納し その名がつけられた畠山石や赤松・細川石などの名石が残されている
西側の衣笠山を借景とした庭園は室町時代の代表的な池泉(ちせん)回遊式庭園と呼ばれている

金閣寺3(1)

義満の没後 遺言により夢窓国師(むそうこくじ)を開山(初代の住職)とし 
義満の法号「鹿苑院殿」から二字をとり「鹿苑寺」と名付けられた

金閣は昭和25年(1950)の放火によって焼失 
現在の金閣は 昭和30年(1955)に再建されたもので

再建時には10cm角の金箔が10万枚 
その後の修復で20万枚使用された


「現存天守12城めぐり」番外編3~元離宮二条城~

「現存天守12城めぐり」で京都に2泊
6月14日 京都市内数ケ所を回った

今回は「現存天守12城めぐり」番外編「岡山城」 「京都御所」に続いて
その3 「元離宮二条城」

二条城配置図(1)
  (城内図)

二条城は慶長8年(1603) 江戸幕府初代将軍徳川家康が天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所とするために築城したもの

3代将軍家光が寛永3年(1626) 
後水尾天皇の行幸に合わせ城内を大規模改修を行い 
二の丸御殿にも狩野探幽の障壁画など数多く加えられ壮麗な城に天皇を迎えた

慶応3年(1867)
15代将軍慶喜が二の丸御殿大広間で「大政奉還」の意思を表明したことは有名

二条城の玄関 東大手門
寛永2年(1662)頃のもの 
2階建てで寛永の天皇行幸の際には2階から見下ろさないようにとの配慮で一重の門に建て替えられたとのこと

二条城1(東大手門)(1)
  (東大手門)

唐門
二の丸御殿の正面にあり 屋根の前後に唐破風が付いている
平成25年(2013)に修復工事を行い往時の姿によみがえった

二条城2(唐門)(1)

門には長寿を意味する「松竹梅に鶴」 聖域を守護する「唐獅子」など豪華絢爛な極彩色彫刻がある

二条城3(1)(唐門)
  (唐門)

二の丸御殿
6棟が雁行形に立ち並ぶ御殿
部屋数33室 800畳余りもある内部は代表的な「松鷹図」をはじめ
多くの狩野派の障壁画で装飾されている

二条城5(1)(二の丸御殿)
  (二の丸御殿)

二の丸庭園
寛永3年(1626)後水尾天皇行幸のために作事奉行小堀遠州の下で改修
池の中央に蓬莱島 左右に鶴亀の島を配した書院造庭園がある

二条城6(1)(二の丸庭園)
  (二の丸庭園)

本丸櫓門
本丸御殿・庭園へ向かう東橋と本丸櫓門 そして内堀

二条城7(1)(本丸櫓門)
  (本丸櫓門と内堀)

本丸御殿
本丸御殿は明治26年(1893)に京都御所の北東部にあった桂宮御殿を移築したもの
周りは本丸庭園
明治天皇の行幸の際に枯山水から大改造した庭園

本丸御殿1(1)
  (天守閣跡からの本丸御殿)

天守閣跡
本丸の南西隅には伏見城から移された五重六階の天守閣があったが寛延3年81750)に落雷によって焼失 石垣だけが残り
天守閣があった場所は砂利を敷いた広場になっている

二条城8(1)(天守閣跡)
  (天守閣跡)

天守閣跡からの景色

二条城9(1)(天守閣跡から)


清流園へ向かう途中の 内堀・石垣

二条城10(1)(城内から内堀)
  (内堀の様子)

清流園と香雲亭
京都の豪商角倉家の屋敷跡から建築部材・庭石・樹木を譲り受け 昭和40(1965)に作庭
香雲亭・茶室和楽庵がある和風庭園と芝生の洋風庭園からなる庭園となっている

二条城11(1)(清流園)
  (清流園と香雲亭)

大政奉還記念樹
大政奉還百五十周年の記念樹(桜)がこの清流園内にある

二条城14(大政奉還記念樹)(1)
  (大政奉還百五十周年記念樹)

北大手門
清流園側にある二の丸に入るもう一つの門 

二条城13(1)(北大手門)
  (北大手門)

二の丸御殿の内部は撮影禁止となっているので
見ずらいがパンフレットの一部を掲載

パンフ2(1)
(元離宮二条城パンフから)

豪華絢爛 こんな感じでした


「現存天守12城めぐり」番外編2~京都御所~

「現存天守12城めぐり」 番外編その2 「京都御所」

「京都御所」は城ではないが 
今回城めぐりの旅で6月13日に姫路城から京都に入り立ち寄った

京都御所は以前宮内庁に事前申し込みをしなければ参観できなかったが
3年ほど前から一般公開となった 

建物の中に入ることは出来ないが 参観は無料 敷地内には駐車場もある

さっそく 清所門(せいしょもん)から御所に入ってみると
築地塀(ついじべい)に囲まれた中は広く なんと解放感があること

京都御所1(1)
  (清所門)

平安遷都から明治維新まで都は京都にあり 天皇のお住まいがこの「京都御所」
桓武天皇が平城京(奈良)から長岡京(京都府)を経て延暦2年(794)に平安京に都を移されたのがはじまり

現在この場所は元弘元年(1331)に光厳天皇がここで即位されて以降 明治2年(1869)に明治天皇が東京に移られるまでの約500年間天皇のお住まいとして使われた

この間幾度となく火災に遭いその都度再建され  
安政2年(1855)に再建されたのが現在の京都御所とされている

この御所は天皇の日々の御生活や数々の宮中の年中行事をはじめ 幕末期の王政復古の大号令 五箇条の御誓文の発布 また
明治・大正・昭和天皇の即位の礼が行われた歴史的な舞台となった場所である

清所門の並びに宜秋門(ぎしゅうもん)がある

京都御所2(宜秋門)(1)
  (宜秋門)

そして御車寄(おくるまよせ)
高位な貴族などが参内した際に儀式や天皇との対面のため使用した玄関

京都御所3(御車寄)(1)
  (御車寄)

諸大夫の間(しょだいぶのま)
正式な御用で参内した公家や将軍家の使者の控えの間
身分によって部屋が決まっている 建物の向かって右に行くほど身分が高い

京都御所4(諸大夫の間)(1)
  (諸大夫の間)

新御車寄(しんみくるまよせ)
大正4年(1915)大正天皇の即位の礼が行われるのに際し馬車による行幸に対応する玄関として新設されたもの

京都御所5(新御車寄)(1)
  (新御車寄)

建礼門(けんれいもん)
南向きにある正門 現在は天皇陛下及び国賓が来られた際に使用されている

京都御所6(建礼門)(1)
  (建礼門)

承明門(しょうめいもん)
この門に囲まれた内部に紫宸殿(ししんでん)がある
朱が鮮やか あと数十年もすれば落ち着いた色になるのか

京都御所7(承明門)(1)
  (承明門)

紫宸殿(ししんでん)
最も格式の高い正殿 即位の礼などの重要な儀式が行われた
慶応4年(1868)の「五箇条の御誓文」発布の舞台ともなっている

京都御所8(紫宸殿)(1)
  (紫宸殿)

清涼殿(せいりょうでん)
平安中期から天皇の日常のお住まいとして使われた御殿
政事・祭事など重要な儀式も行われていた

京都御所9(清涼殿)(1)
  (清涼殿)

小御所(こごしょ)
江戸時代には将軍や大名など武家との対面や儀式の場として使われた
明治維新の際には「小御所会議」がここで行われている

京都御所10(小御所)(1)
  (小御所)

蹴鞠(けまり)の庭
革製の鞠を地面に落とすことなく蹴り続ける伝統的な球戯
勝敗を争うものではなく いかに蹴りやすい鞠を相手に渡すかという精神のもの

京都御所(蹴鞠の庭)(1)
  (蹴鞠の庭)

御学問所(おがくもんじょ)
御読書始めや和歌の会などが行われた場所

京都御所11(御学問所)(1)
  (御学問所)

春興殿(しゅんこうでん)
大正4年(1915)大正天皇の即位礼に際し皇居から神鏡を一時的に奉安するために建てられた

京都御所12(1)(春興殿)
  (春興殿)

御常御殿(おつねごてん)
清涼御殿に設けられるようになっていた常御所が天正18年(1590)に建物として独立したもの
天皇のお住まいでもあり儀式や対面の場としても使われた

京都御所13(1)(御常御殿)
  (御常御殿)

御池庭(おいけにわ) 御内庭(ごないてい)
庭も見事に整備されている
池を中心とした回遊式庭園

御池庭1(1)

曲折した遣水(やりみず)を流して諸所に土橋や石橋を架け灯篭や庭石を配した風雅な御庭

御内庭1(1)

建物は荘厳で 華やかな御所であった

「現存天守12城めぐり」~姫路城~

「現存天守12城めぐり」 第6弾 姫路城

これまで現存天守12城のうち 
松江城 松山城 宇和島城 丸亀城 備中松山城の5城と
他に 岡山城を見学

6月13日(木)
前泊の岡山市から山陽自動車道で姫路城へ90Km 
約1時間半の道のり

姫路城の駐車場へ車を置き 
姫路城公園に入り大手門をくぐると三の丸広場

登城券を買い まず目にするのが菱の門
城内12門のうち最大の門で柱や扉は欅(けやき)材 
両端の柱上部に木彫りの紋(花菱)があることからこの名が付いている

姫路城1-1
(菱の門 見えにくいが白丸印部分に紋が付いている)

この門をくぐると二の丸 
見上げると 日本一の名城と呼ばれる姫路城
飛び立とううとする白鷺(しらさぎ)の羽ばたきだ

別名 白鷺城
「しらさぎ」とは読まず「はくろ」と音読みするそうだ

姫路城2(1)

さすが名城とあって観光客の数は他の城とは桁違い
修学旅行生をはじめ海外からも大勢の人が訪れている

播磨平野の丘陵標高50mの姫山に室町時代元徳3年(1331)赤松則村が最初に砦を築いたのがはじまり
その後小寺氏 黒田職隆が入った 信長の命で秀吉が別所氏を滅ぼし城に入り 三重の天守を築いて近世城郭としての体裁を整え姫路城と改称 秀吉がこの城に入ることができたのは黒田官兵衛の力によるものであった

その後関ヶ原の戦いで戦功をたてた池田輝政(家康の娘婿)が入封 9年の歳月をかけて慶長14年(1609)五重六階地下一階の天守閣を築いた 後本多忠正が入城し西の丸・三の丸と増築複雑な縄張りを持つ城が完成した

この後も数多くの城主を迎えている

img194(1).jpg

天守のある本丸までは 数多くの門を通らなければならない

門は「いの門」「ろの門」「はの門」「にの門」などと名付けられている

姫路城3(1)

姫路城4(1)
(水の門と その横壁は油壁と呼ばれるもの 秀吉時代のものとされ 城内で唯一残る築地塀)

姫路城5(1)

石垣に面白い石が混じっている
「姥ケ石(うばがいし)」とよばれるもの

姫路城6(1)

石垣の上部に欠けた石臼が間詰め石として積まれている
秀吉が姫路城を築くときに石集めに苦労していることを聞き 城下で餅を焼いて売っていた貧しいお婆さんが石臼を寄付
秀吉は喜んで石垣に使った この評判が広まり国中から石が集まり築城工事は急速に進んだという話

ところがこの「姥ケ石(うばがいし)」が積まれている石垣は池田輝政が築いたものなので どうやら伝説らしい
そのほかに「姥ケ石(うばがいし)」にはお婆さんは妊娠しない(孕まない)ことにかけて 石垣も孕まないようにとのお呪(まじな)いで積まれたという説もあるとか

1階から大天守(6階)まで 内部の様子

姫路城7天守1(1)

第二次世界大戦で姫路市内は大空襲で多くの建物が焼失
しかし姫路城は無傷 奇跡の城と呼ばれた

これまで何度も修理を受けているが 昭和31年(1956)から大解体修理を受け
大天守を支えている巨大な心柱を新たに入れ替えた
この工事はNHKの「プロジェクトX」でも紹介されていた 8年後に完成

姫路城8天守2 (1)
(心柱など 写真右下は釘の頭を隠すための飾り)

姫路城9-1
(6階の大天守には神棚が飾られていた)

大天守の修理は昭和の大修理から50年をへて検討することとなっていたが 
その後の破損などを踏まえ計画が前倒しされ 
平成21年2009)から平成27年(2015)に工事が行われることになった

これが「平成の大修理」 
この修理で過去の補修であてられた補強材の撤去や瓦などの軽量化が図られている

屋根瓦と鯱(しゃちほこ)

姫路城10(1)

大天守から下を眺めた様子

姫路城11(1)

天守は江戸時代のままの姿で現在まで残っている現存天守12城の中で最大の規模

姫路城の天守は
高くそびえ立つ五層の大天守と東・西北・西に配され二重の渡櫓で繋がれた三層の小天守で構成されている
この配置はいわゆる連立式天守で 本丸内更には独立した天守曲輪を四方から守る構造なので 極めて堅固な天守の完成形といわれている

姫路城が美しく見えるのは 壁面が総漆喰(しっくい)で白く塗られていること
いくつもの破風が屋根を飾り変化にとんだ外観になっていることなどがあげられる

もちろん石垣も素晴らしい

姫路城14-1

実に見ごたえのある城であった

「現存天守12城めぐり」番外編1~岡山城~

「現存天守12城めぐり」 番外編その1~岡山城~

岡山市丸の内にある岡山城は 「現存天守12城」ではないが 
6月12日 姫路城への途中なので立ち寄ってみた

岡山城1(1)
(清流をたたえて流れる旭川と
日本三名園の一つ「後楽園」を背景にした岡山城)

入口から入っていくと
岡山城3(1)

下の段の鉄門跡を通り中の段に入ると不明門がある
普段この門は閉じたままであったのでこの名が付いている

岡山城4(1)
(鉄門跡と不明門)

中の段から本段へ入ると 天守閣の礎石(そせき)が並べられている
岡山城は昭和20年(1945)戦災で焼失 昭和41年(1966)に元の位置に鉄筋コンクリートで再建されたため礎石をこの場所に移し 元の通りに配置

岡山城5(1)
(天守閣の礎石)

この本丸内で戦火を免れた唯一の建物は中段の北西隅に建つ月見櫓(つきみやぐら)
「月見」という風流を楽しむためにも使われたようだが
防衛のためのもので櫓自体も武器貯蔵庫になっており 隠し銃眼(鉄砲の狭間)や石落としなども設けられている

岡山城12(1)
(月見櫓と野面積の石垣)

石垣のほとんどは当時のまま保存されており全国的にもあまり例がない
特に貴重なのは天守閣を広く取り巻く石積みが丸い形の自然石を用いた野面積(のづらづみ)
安土桃山時代の初めの古い形式のものらしい

一方月見櫓を支えている付近の石垣は 
石の周辺を平らに加工した割石を用いた石積み工法で「扇の勾配」ともいわれるように石垣のカーブの美しさが特徴

また岡山城で使われている石のすべては瀬戸内海の犬島から運ばれたもので
犬島は花崗岩の宝庫であったようだ

岡山城天守

岡山城6(1)

岡山城は本格的な城づくりのスタートとされる織田信長の築いた安土城にならって作られた日本を代表する城郭建築

天正元年(1573)宇喜多直家が当時の城主であった金光宗高を滅ぼし その城を修築
今の城を築いたのは実子秀家で豊臣秀吉の養子となって「秀」の一字をもらった人物

慶長2年(1590)に8年におよぶ大事業で現在の天守閣の立つ「岡山」という丘に旭川の流れを付け替えて完成

天守閣は石垣からの高さが20.45m二階建ての建物を大中小の三つに重ねた三層六階の構造

外壁の下見板には黒漆がに塗られ太陽に照らされると あたかも烏(カラス)の濡れ羽色によく似ていたため「烏城(うじょう)」の別名がある

天守内部
天守閣の内部には かって城主が生活をしていた「城主の間」の遺構が再現されている(写真は取り損なった)
他の城でこの例があるのは 犬山城だけのようだ

岡山城7(1)

宇喜多秀家の甲冑 籠 そして鯱瓦

岡山城8(1)

岡山城天守の鯱
天守閣が昭和41年(1966)に再建された時に作られたもので 土製の瓦として焼かれた後に漆を接着剤にして金箔を貼り付けたもの
同様のものが現在の天守閣の最上部にも掲げられている

岡山城9 (1)
(天守閣の鯱)

旭川の対岸に造営された回遊式の大名庭園「後楽園」からの天守の景観も美しい

岡山城13(1)
(庭園内から見た天守と庭園内)

岡山城14(1)
(後楽園庭園内の建物と竹林)

後楽園はシニア割引で入園
これも思い出の記念品

後楽園入園券


「現存天守12城めぐり」~備中松山城~

「現存天守12城めぐり」 第5弾 備中松山城

6月12日 四国香川県坂出市より瀬戸大橋を渡り岡山県高梁(たかはし)市へ

備中松山は
四つの峰からなる「臥牛山」のうち「小松山」山頂(標高約430m)を中心に築かれた山城

天守の現存する山城としては随一の高さ

下図 赤丸で囲った小松山城群が備中松山城の位置

備中松山城1-1(1)

最近 雲海に浮かぶ山城として人気が出ている

この城へ行くにはかなりの覚悟が必要
土日は5合目の駐車場から8合目のふいご峠までシャトルバスに乗っていくのだが 
この日は平日だったので8合目まで車で登れた

だが 途中ガードロープの無い しかも対向車とすれ違い出来ないほど狭い場所があり
しかもその場所は片側は断崖絶壁 対向車が来ないことを祈ってビクビク運転

やっとの思いで8合目のふいご峠駐車場に到着

備中松山城2(1)
(8合目ふいご峠駐車場)

この駐車場は14台分の駐車スペースしかない 運よく待ち時間もなくすんなり登ってきた

登る途中で交通整理をしていた案内人がいたが 
この駐車場と交互通行させるためトランシーバーで連絡を取り合っていたようだ 
下で ちょっと教えてくれたら怖い思いをしなくて済んだのに

さてこれから ひと踏ん張り
城まではたかが600mだが20~30分かかるという

備中松山城3(1)

休み休み登り 近づいたところに石垣が目に付いた
大手門付近の石垣は天然巨石と融合させた石垣となっている 
この城の特徴の一つでもある

備中松山城4(1)
(天然巨石を利用した石垣)

登り始めて25分ほど
多くの狭間が付いている土塀などが目に入ってきた

備中松山城5(1)

天守と復元された本丸南御門・腕木御門・路地門・五の平櫓など

備中松山城6(1)

備中松山城7(1)

備中松山城は 秋葉重信が延応2年(1240鎌倉時代)に築いたのが最初
臥牛山は毛利家などの城塞として機能していた

江戸時代になり 小堀正次・正一(茶人・作庭家小堀遠州)親子の修築を経て天和年間(1681~84)水谷勝宗の大改修で近世三大山城とされる最終的な城の形となったようである

天守は二層二階 中の様子

備中松山城9(1)

下写真は蕪懸魚(かぶらげぎょ)
天守の上層 妻の拝み(つまのおがみ)に取り付けられている装飾 左右一対の鰭(ひれ)を有する

最近の修理時に取り換えられたもので 江戸時代の創建材(1683)のものとのこと

備中松山城10(1)

天守内部
窓は外から内部が見えにくい格子状

備中松山城11(1)

坂の途中からの景色

備中松山城12(1)

雲海が見られるのは秋から春にかけての朝8時頃
朝の気温と日中の気温差が大きい時

しかし雲海に浮かぶ備中松山城を見るためには 更に上の展望台まで登らなければならない

この場所には野性の猿が生息しているので出会ったら 興奮させないよう注意しなければならないとのこと



「現存天守12城めぐり」~丸亀城~

「現存天守12城めぐり」 第4弾 丸亀城

6月11日松山市から宇和島城を巡り 松山に戻る高速道路で香川県丸亀市へ
宇和島から約3時間のドライブで 丸亀城に到着

丸亀城は別名亀山城 
標高66mの亀山に生駒親正(いこまちかまさ)が慶長7年(1597)から5年の歳月をかけて築城した平山城

丸亀城14(1)

築城後元和の一国一城令でいったん廃城となり
その後入封した山崎家治(六角・織田・豊臣・徳川氏と仕える主君を変え生き延びた大名)が卓越した石垣技術で丸亀城を堅固な石垣に守られた城に築き直した 
しかし後継ぎが無く改易

その後に入った京極氏がこの城を完成 現在の天守はこの京極氏がつくったもの

東西約540m 南北約460mの内堀内に史跡がある

内堀の北側に位置する大手一ノ門  堀端の高麗門のニノ門
そして堀の様子

丸亀城1-1

玄関先御門 
この門は京極氏の屋敷の表門にあたる 
この門に接して番所 長屋がある

丸亀城2-1

三ノ丸へ向かう見返り坂 
結構長い坂なので休み休み登って行く

丸亀城3-1

現存していないが 三の丸の3ヶ所に隅櫓(すみやぐら)があったとのこと
月見櫓跡からは讃岐富士を望む

丸亀城4-1

三ノ丸北側の石垣は 丸亀城では最も高く20m以上の城壁が続き
隅角部の石垣は算木積みされた美しい曲線美で「扇の勾配」と呼ばれている

丸亀城6-1

丸亀城の石垣の種類がパンプレットに載っていた
分かりやすい解説だ

丸亀城7-1

三ノ丸から二ノ丸へ
現在は無いが 二ノ丸にも石垣上に隅櫓や渡櫓(わたりやぐら)があった

丸亀城5-1

大手から入ると 三ノ丸から二ノ丸 そして本丸へと時計まわりに螺旋状に回らなければならないようにできており
動線を長くし 敵を側面から何度も攻撃できるような工夫が施されている

天守は高さ15mと日本一小さい 
しかし 三重の小規模な天守ながら 石垣の上に築かれた天守は美しく風格がある
内部は狭いので一度に入城できる人数は限られ 順番待ちをしていた

丸亀城9-1

北側(城外側)は唐破風や出窓 格子窓に飾られているが
西面(城内側)は飾りは殆ど無く 殺風景でもある

丸亀城10-1

内部は他の城と同じ 各種の狭間があるが
ここには大砲狭間もあった

丸亀城12-1 jpg

内部の様子

丸亀城13-1

丸亀公園前からの丸亀城

丸亀城15-1




「現存天守12城めぐり」~宇和島城~

「現存天守12城めぐり」 第3弾 宇和島城

6月11日
松山市から同じ愛媛県の宇和島市まで高速道路で1時間半

江戸時代から四国西南地域の中心として発展した宇和島市は 伊達十万石の城下町と呼ばれた
宇和島城はリアス式海岸の宇和海の最深部に位置し
標高74mの山頂に本丸をおく平山城

駐車場に車を置き 山頂目指して登って行く
お多福の足取りはボクよりずっと軽やか

宇和島城1(1)

途中ボランティアの方が上までの道の様子を教えてくれた
天守が見えてきた 

宇和島城2(1)

宇和島城は慶長元年(1596)から6年を費やして築城の第一人者藤堂高虎が築いた
堀は全て埋め立てられ 三ノ丸など総郭部分はほとんど焼失などで失い
残っているのがわずか本丸の天守と武器庫(現在は資料館)

宇和島城3(1)
(天守は小さいが 立ち姿が素晴らしい)

天守は三層三階 もともとは下見張子小柄で旧式の望楼型天守だったが 
特徴的なのは石垣や土塁を用いず 隆起した岩盤の上に建設

寛文6年(1666)に建てられた現存の二代目天守は宇和島伊達家2代宗利が再建 
層塔型で千鳥破風や唐破風などに飾られた装飾性の高いものになった

宇和島城4(1)
上の尖った形のが千鳥破風 下左右の丸みがかったのが唐破風

二階と三階の様子

宇和島城5(1)

階段はどこの城も急で歩幅が広く危ないので
観光客用が 手すりが付けてれれている

宇和島城6(1)

下の写真上は宇和島城を描いた鳥観図
襖絵であったものを昭和になって屏風絵に仕立てられたものをデジタルカメラで原寸大で複製したものとのこと

宇和島城8(1)

上写真の下は伊達政宗と伊達秀宗(正宗の長男)
築城した藤堂高虎はすぐ今治築城のため宇和島を離れ 
大坂の陣後 石垣や天守 櫓は慶長20年(1615)に入部した伊達政宗の長男秀宗が修築
秀宗は正宗の後継となれずこの地で十万石を与えらえれ この城は伊達家が明治まで伝えた

宇和島城からの宇和島市の街並み
宇和海を見渡すことができる

宇和島城7(1)


ローズミンタラさんの庭を拝見

1週間前の日曜日 
砂川市の「ローズミンタラ」さんのローズガーデンを拝見させていただきました

ローズガーデンは誰もが自由に見学出来るようになっているので
ご主人の大福さんおよび 奥様の豆福さんが留守でも OK!

お伺いしたこの日も先客がいて
大福さん 豆福さんがお相手していました

ヤ~ 綺麗なこと 庭はバラが満開
これはガーデンの入口

ローズミンタラ1(1)

大福さんは「北海道ガーデニングマイスター」の資格をお持ちなので
その道の「プロ」

ボクは花の名前はさっぱり分かりませんが
とにかく種類も多く 色々な色のバラが咲き乱れています

ローズミンタラ3(1)

今年は咲くのが早いそうです 雪解けも早く 気候のせいなのでしょうか
ちょうど見頃になったとか 良い時期に来てくれたと大歓迎
 
ローズミンタラ4(1)

ウチの庭とは比較の対象になりませんが
手入れも行き届き 見事なものです 

これまでもNHKでも放映されたり 
ガーデニングの専門誌・情報誌に何度も紹介されているとおり
かなり知れ渡っている私設バラ園です

額縁風のものにも花が飾られていました
これは豆福さんの作品なのかも

ローズミンタラ2(1)

バラの苗木を一本いただいてきました
「ハニーブーケ」という名で
写真下右のような花を咲かせるのとのことでした

ローズミンタラ5(1)

これからも何度か見頃を迎える時期があるようです
砂川市を通るときは 是非寄ってみてはどうでしょうか

「ローズミンタラ」と言えば 地元の人は誰でも知っているので
場所のわからない方は 聞いてみてください

ボクのブログにもリンクしていますので 興味のある方はクリックしてみてください
綺麗なバラの写真が沢山アップされています


プロフィール

KEARASHI

Author:KEARASHI
2013年10月リタイアをきっかけに、木彫・木工クラフト工房を開設しました。
木に新しい命を吹き込むという思いを込め、「萌樹工房」(もえぎこうぼう)と名付けています。
ブログでは、工房の様子や他の趣味等を載せていきます。

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