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「現存天守12城めぐり」番外編9~能登小牧台から輪島朝市~

「現存天守12城めぐり」
番外編9 能登小牧台から輪島朝市

能登小牧台

前日(6月17日)世界遺産岐阜県「白川郷合掌造り集落」を見学後
能登七尾市の宿への途中能登島を一周(6月19日付「ブログ瀬戸大橋を車で初めて渡る」の後半)

夕方宿に着いた 
この日の宿泊は「国民宿舎能登小牧台」
これまでホテルのツインルームに泊まっていたが この宿には和室を予約していた

月曜日ともあって宿泊客が少ないのか 
和室プラス洋室のデラックスルームを用意してくれた

能登小牧台1(1)
  (国民宿舎「能登小牧台」)

この部屋からは湾が見渡せ 
湾には牡蠣(かき)養殖の筏(いかだ)が数多く浮かんでいた

能登小牧台2(1)
  (部屋から湾の景色)

この日も天候に恵まれ 
日没とともに月が輝きだし 海面に月のあかりが反射

能登小牧台3(1)
  (日没と海面に写る月明かり)

温泉風呂に浸かり 疲れを癒やしたところで

6月18日(火) 
この日の目的地は金沢 
その途中 輪島朝市を見学することに

輪島朝市
輪島朝市1(1)
  (朝市商店街図)

石川県輪島朝市は 
勝浦朝市(千葉県勝浦市) 高山朝市(岐阜県高山市)と並ぶ三大朝市
残念ながら函館朝市はこの中には入っていない

歴史は古く 平安時代から行われており 
神社の祭礼日などに生産物を持ち寄り 物々交換し合ったのが始まり
明治時代から毎日市が立つようになったようだ
ということは 千年以上の歴史があることになる

朝市通り

朝市は8時から12時まで
約360mの商店街で毎朝行われている

朝市の店舗はほとんどが露店
朝市露店営業は 朝市組合に入らなければ権利が得られない
現在は200以上の露店が立ち並んでいる

多くの観光客が訪れているが この日
訪れたのは10時前 それ程混んでいなかった

輪島朝市2(1)
  (輪島朝市通り)

日本海に面し 水産業でも発展した輪島市 やはり魚がメイン
平成の初めには300名を超える組合員がいたが 現在は260名あまりで
高齢化により出店できなくなる組合員が多くなる一方で 若い組合員も増えているようだ

朝市に一番似合っている光景がこれ

輪島朝市7(1)
  (鮮魚類の露店 魚とカニ)

「おにいさん 魚買ってきな!」と言われ 
「旅行中だから無理」 と言ったら
「送ってやるよ!」 元気な母さんたちばかり

水産加工品を扱う露店が多い

輪島朝市6(1)
(水産加工品の露店)

魚介類をはじめ海藻類加工品の種類が豊富
北海道ではあまり見られない
「カラスミ(ボラの卵巣)」「のどぐろのふりかけ」
「飛び魚のダシ」「「むしあわび」などがあり

輪島朝市4 (1)
(水産加工品の露店)

「焼貝のひも」「焼きほたて」などの珍味類も豊富
しかも「Pay Pay」も使えるよ 進んでるね

これが
「ふぐの卵巣」の加工品

卵巣には猛毒があるため 2~3年塩漬けにして毒を抜き
加工品にする
写真は「ふぐの子糠漬」と「ふぐの子クリームチーズ」

輪島朝市5(1)
  (ふぐの子糠漬とふぐの子クリームチーズ)

このような所を歩いていると 
いつも「おにいさん」とか「社長」などと言って呼び止められることが多い

「そこの父さん」とか「そこのおじいさん」と言われるより確かに気分は良いのだが
その気になって その都度買っていたらキリがなくなるので
「そこそこ」にしておくことが肝心だ

木工品などもある
輪島市は「輪島塗」で有名 カップは「輪島塗」かも

見事な「お面」もある
孫が怖がりそうな「お面」だ

輪島朝市3(1)
(木工品とお面)

地酒類も豊富
「白駒」という酒蔵の酒が沢山並べられてある

左側に「おれの酒」とラベルが張られた酒があるが
注がれるものにとっては ちょっと遠慮がちに飲まなければならないような
そんな名前の酒だ

輪島朝市8(1)
(白駒酒造店)

市民の台所から観光名所として時代ごとの役割を担ってきたが
ライフスタイルの変化や大型店の進出・農産物直売所の整備などにより
「買う朝市」から「観る朝市」へと変化が著しくなっている とホームページにも載っている

朝市の将来像を描きながら 実現に向けた取り組みを行っているとのこと

是非
朝市文化を継承してもらいたいものです

p.s
この日(6月18日)の夜 金沢市で宿泊中新潟県北部で地震が発生 
震源地は確か震度6弱
この時 金沢では震度1の揺れを感じたが 
前日(17日)に宿泊した能登では震度3を記録していた

お多福との旅行先での地震体験は多くあり
中でも最大の経験は平成5年(1993)の北海道南西沖地震(奥尻島沖の地震)
この時は道南大沼公園のホテルに宿泊していた ここでは震度5で
翌日はあちこち道路が崩壊しており ようやく家までたどり着いたことを思い出した

・・・余談・・・でした



「現存天守12城めぐり」 番外編8~白川郷合掌造り集落~

「現存天守12城めぐり」 
番外編8 ~白川郷合掌造り集落

7月17日(月)
名古屋市をあとにして 能登への途中 白川郷を目指す
名神高速から東海北陸自動車道に乗り 150km 2時間15分程度で到着

せせらぎ公園駐車場に車を止めると目に付くのが 
「であいの館」 観光案内所だ もちろん合掌造り

入口の壁には 集落の案内板が掲げられていた

白川郷1(1)
  (であいの館と案内板)

ここも海外からの観光客がいっぱい
集落は川を渡って向こう側 川には吊り橋が架かっている
橋の名前が「であい橋」 

白川郷2(1)
  (であい橋)

高所恐怖症と揺れる橋には弱いお多福だが
幸いに それほど揺れる橋でなかった 無事に渡りきれた

さっそく目に入るのが 合掌造りの建物

白川郷16 (1)
  (合掌造りの建物)

岐阜県白川村は昭和20年(1945)~昭和30年(1955)にかけて庄川流域でのダム建設で多くの集落が水没
この集落内の合掌造りの民家は転売されたり焼却処分されたりして 300棟あったものが 昭和36年(1961)には190棟あまりに激減し 集落の過疎化と同時に解体も進んだ

危機感を抱いた村荻町の若者たちがさまざまな活動を通し 山村生活を活性化し 昭和46年(1971)には荻町の合掌造りを「売らない・貸さない・壊さない」を掲げ「白川郷荻町集落の自然環境を守る会」を発足させ集落を守ったそうだ

その後 国の重要伝統的建造物保護地区に選定され行政支援を受けながら保存され
平成7年(1995)五箇山(相倉・菅沼地区)とともに
「白川郷・五箇山の合掌造り集落」としてユネスコの世界遺産に登録された

集落内には 民家はもとより神社・お寺などもあり
国あるいは県の重要文化財に指定されているものがある
民家の合掌造りは 観光客向けのお土産屋 食事処に使われているものも多い

白川郷7(1)
  (写真上は民宿 下は休憩所)

集落はすっかり観光化されており 街並みの様子を写真で紹介するとこんな感じ

白川郷5(1)

白川郷6(1)
  (荻町集落街並みの様子)

県指定重要文化財明善寺郷土館に入ってみた
浄土真宗大谷派の寺院
本堂・庫裏・鐘楼と全て合掌造りなのは類を見ないそうだ

本堂前の鐘楼は茅葺き 檜を使用した二階建て

明善寺1 (1)
  (上左鐘楼 上右本堂 下左庫裏 下右庫裏前の案内板)

庫裏は合掌造り五階建て 高さ15m 面積100坪 白川村で最大の合掌造り
徳川末期の建物で資料館になっている

庫裏の二階は
農機具類や養蚕用具 麻紡ぎ道具等々などが所狭しと展示されている

この村では幕末から昭和初期には養蚕業が基幹産業で 
屋根裏の大空間は2~4層にに分け蚕の飼育場として使われていた

白川郷10(1)
  (庫裏の屋根裏)

囲炉裏の煙で燻され 黒光りしている屋根裏
煙は防腐効果がある

屋根は茅葺きのきつい勾配の切妻屋根 これは雪を落とすため
また合掌造りは一切釘などは使わず 柱など全て藁縄で締めて建てられる

白川郷9(1)
  (合掌造りの様子が分かる屋根裏)

寺院本堂内の様子 本堂は築260年
居間の囲炉裏は現在も使われている

白川郷11(1)
  (寺院内の様子)

庫裏の窓から見える合掌造りの風景

白川郷12(1)

集落に水路を張り巡らし 山からの清流を生活に取り入れている

白川郷15(1)
  (庭で 鯉が飼育されていた)

駐車場付近の観光客

白川郷14(1)

落ち着いた雰囲気のある集落だった


「現存天守12城めぐり」 番外編7~名古屋城その3~

「現存天守12城めぐり」 番外編7~名古屋城その3~

今回は名古屋城の城主であった尾張徳川家の関連施設
「徳川園」
を紹介

名古屋城の東3Kmほど離れたところに「徳川園」があり
住所は名古屋市東区徳川町1001
住所にあるとおり 「徳川」の名が ここにも残っている

「徳川園」に隣接して
「源氏物語絵巻」を展示することで有名な「徳川美術館」
そして河内本「源氏物語」を所蔵する 「名古屋市蓬左(ほうさ)文庫」がある

この3施設の看板がかかっている門が黒門
明治33年(1900)に建てられた尾張徳川家の邸宅の遺構で 総けやき造り
この門も名古屋大空襲による焼失を免れた数少ない遺産

徳川園1(1)
  (黒門)

「徳川園」へは この門からではなく 北側の大曾根口から入園した

徳川園2(1)
  (徳川園と関連施設配置図)

「徳川園」は元禄8年(1695)
尾張藩二代藩主徳川光友の隠居所の大曾根屋敷跡に築造された池泉回遊式の大名庭園

当時の敷地面積は13万坪 
光友の没後は家老職三家に譲られたが 
明治22年(1889)から徳川家の邸宅となった

昭和6年(1931)
第十九代当主義親から邸宅と庭園の寄付を受けた名古屋市が改修整備し 
「徳川園」として一般公開
しかし名古屋空襲でほとんど焼失した

戦後は都市公園として改修し 
平成13年(2001)から日本庭園として再整備
平成16年(2004)に開園した

龍仙湖(りゅうせんこ)

ここは海に見立てた水面に島々・巨石に懸る紅葉・飛び石・船の渡し場など見どころを配した池泉回遊式庭園の中心的存在
水は地下水を水源としている

徳川園3(1)
  (龍仙湖)

観仙楼(かんせんろう)
 
龍仙湖に面する二層の建物で レストラン・ホール・ショップがある

徳川園4(1)
  (観仙楼)

虎の尾(とらのお)

上流の椎の樹林からもみじの木々を縫って流れ出した水が龍仙湖へ注いでいる
この姿が「虎の尾」に似ていることからこの名が付く

徳川園5(1)
  (虎の尾)

大曾根(おおそね)の滝・虎仙橋(こせんきょう)・瑞龍亭(ずいりゅうてい)

大曾根の滝(おおそねのたき)(写真左)
虎の尾の上流で落差は6m
滝の背後は徳川園で最も高く 湖水面とは11mの標高差があり
大曾根はこの辺りの地名

虎仙橋(こせんきょう)(写真右上)
虎の尾に架かる檜造りの橋で 下流に龍仙湖を望む

瑞龍亭(ずいりゅうてい)(写真右下)
徳川光友の諡合(しごう)「瑞龍院」から名付けられた小さな茶室

徳川園10(1)
  (大曾根の滝・虎仙橋・瑞龍亭 )

*虎の尾の上流域 及び大曾根の滝・虎仙橋・瑞龍亭は見過ごしたので説明と写真はパンフレットから引用した)

池には水連と花菖蒲が咲いていた
春(4月中・下旬)には徳川園一帯に牡丹が咲き誇るとのこと

徳川園6(1)
  (水連と花菖蒲)


「徳川美術館」と「名古屋市蓬左(ほうさ)文庫」

館内は写真撮影禁止となっていたので 
パンフレットなどを掲載した

徳川美術館

徳川美術館は公益財団法人が運営する私立美術館
昭和13年(1935)に開設 

収蔵品は徳川家康の遺品・徳川家伝来の大名道具・他の大名家からの購入品・豪商らからの寄贈品などである

源氏物語絵巻などの国宝も多く所蔵している

見学した日は「裂の美」と題した企画展が開催され
尾張徳川家のコレクションから 
茶人たちに重宝されてきた金襴(きんらん)や緞子(どんす)といった様々な裂地が展示されていた

徳川美術館など(1)
(徳川美術館と記念スタンプ及び入場券 名古屋市蓬左文庫パンフレットから)

名古屋市蓬左(ほうさ)文庫

蓬左文庫は尾張徳川家の旧蔵書を主に和漢の優れた古典籍を所蔵
蔵書数は約11万点 
また 尾張徳川家に伝えられた2千枚を越える絵図も所蔵している

「蓬左」は江戸時代の名古屋の別称 
熱田神宮が伝説の蓬菜(ほうらい)島にあたるとされ
その左方に位置したことからこう呼ばれたそうだ


名古屋城・徳川家関連施設も実に見ごたえがあった
3回に渡った 名古屋城編は終わりだが

最後に 名古屋西区にある旧志水家車寄(くるまよせ)を紹介

旧志水家車寄1(1)
  (名古屋市重要文化財 旧志水家車寄)
*車寄:貴人の邸宅で(牛)車を寄せて乗り降りするために玄関前に設けた屋根付きの部分

これは
今回お世話になったtakarinnさんのご主人が 事前に色々と調べてくださり
案内してくれた建物で 自宅のすぐ近くにあった

案内板によると この車寄は 
もともと名古屋城三之丸にあった尾張藩家老の志水甲斐守屋敷玄関車寄部を移築して門に改造したもので 向唐破風(むかいからはふ)のついた素木造で江戸時代の建物

また中の庭には 二之丸庭園にあった数寄屋建築の茶亭も移築されているとのこと
ともに名古屋市の重要文化財になっていた  


「尾張名古屋は城でもつ」だが 
「現存天守12城めぐり」は名古屋で終わり(尾張)ではなく

もうちょっと お付き合いを・・・



「現存天守12城めぐり」番外編6 ~名古屋城その2~

「現存天守12城めぐり」 番外編 第6弾 「名古屋城」その2

今回は「名古屋城本丸御殿」

名古屋城本丸御殿

名古屋城本丸御殿は 
尾張初代藩主義直の住まいとして徳川家康の命により建設
完成したのは慶長20年(1615) 
同時に藩の政庁としても使われた
 
元和6年(1619)
住まいと政庁の機能を二之丸御殿へ移したことで
将軍上洛の際の宿舎 いわゆる迎賓館になった

14年後の寛永11年(1634)
三代将軍家光の上洛に際して新たに上洛殿や御湯殿書院や黒木書院などが増設され 
本丸御殿はさらに豪華になり 内部も目を見張るものとなった

本丸御殿は第二次世界大戦名古屋空襲で焼失したが
部屋を飾っていた襖絵や天井板絵などは 別の場所で保管されていた

平成21年(2009)から復元工事が始まり
平成30年(2018)6月に完成 一般公開を迎えた

本丸御殿は近世書院造 13棟の建物で構成 
優美な外観とともに 
室内は花鳥風月などを画材とした障壁画や飾り金具などで絢爛豪華に飾られ
400年の時を超えた美しい御殿となっている

名古屋城15(1)
(名古屋城と 本丸御殿)

主要な四棟は「玄関」「表書院」「対面所」「上洛殿」
二棟は「黒木書院」「湯殿書院」で
「上洛殿」とともに家光上洛に合わせ寛永11年(1634)に完成

たった一度の家光上洛のため造られた御殿である

名古屋城16(1)
  (本丸御殿内部図)

玄関(一之間・二之間)

本丸御殿を訪れた人が対面を待つ御殿
二部屋からなり 壁や襖には竹林と勇猛な豹などが描かれている

名古屋城17(玄関)(1)
   (玄関)

表書院

正式な謁見(対面儀礼)のための部屋で 本丸御殿で一番広い

名古屋城18(表書院1)(1)
  (表書院)

五部屋からなり 上段之間は徳川義直が着座する部屋で 
床と違棚・付書院・帳台構などの正式の座敷飾りを備えている

名古屋城19(表書院2)(1)
  (表書院)

対面所

藩主が身内や家臣との私的な対面や宴席に用いた建物
四部屋からなり上段之間・次之間の障壁画は「風俗図」で 
京都や和歌山の四季の風物や名所が描かれている

名古屋城20(対面所)(1)
  (対面所)

鷺の廊下

対面所から上洛殿をつなぐ廊下
天井は格子状になっており 金箔も使っている

名古屋城21(鷺の廊下)(1)
  (鷺の廊下)

上洛殿

本丸御殿で最も格式の高い建物
三代将軍家光の上洛に合わせ増築された建物で六部屋からなる
襖絵・天井板絵・豪華絢爛な彫刻欄間・飾金具等で彩られ 
贅の限りを尽くしている

この御殿には
王の正しい行いを描いている障壁画「帝冠鑑図」や「雪中梅竹鳥図」があり
これは狩野探幽33歳当時の作といわれている

名古屋城22(上洛殿)(1)
  (上洛殿)

天井には板絵がはめ込まれている

上洛殿1(1)
  (上洛殿)

御紋・装飾・釘隠

三つ葉葵の家紋と
豪華絢爛な飾り金具など
もちろん飾金具は職人による手作業によるもの

名古屋城23(釘隠し)(1)
  (御紋・装飾・釘隠など)

梅の間

襖には名の通り 梅の絵が描かれている

名古屋城24(梅の間)(1)
  (梅の間)

上御膳所・下御膳所・廊下

いわゆる配膳室

名古屋城25(上下御膳所)(1)
  (上御膳所・廊下・下御膳所)

湯殿・黒木書院

湯殿は将軍専用の風呂場 いわゆるサウナ式蒸風呂
浴室の他三部屋からなる格式高い書院造の殿舎

黒木書院は他の部屋が総檜造りであるのに対し松材が使われいる
その用材の色から「黒木書院」と呼ばれるようになった
風格のある水墨画が配され 清須城内の家康の宿舎を移築したとも伝えられているそうだ

名古屋城26(湯殿・黒木書院)(1)
  (湯殿・黒木書院)

贅沢三昧 これ以上 見栄を張れないほど
豪華絢爛な名古屋城本丸御殿であった

本丸御殿からの名古屋城天守

名古屋城の屋根は銅板葺き
鮮やかな緑青色になった屋根の色は他の城には無い

名古屋城27(1)
  (本丸御殿方面からの名古屋城天守)


「現存天守12城めぐり」番外編5~名古屋城その1~

「現存天守12城めぐり」番外編第5弾 「名古屋城」その1

6月16日(日) 
「名古屋城」「徳川園」「徳川美術館」を見学

この日は
いつも当ブログにコメントをくれるtakarinnさんご夫妻が案内してくれた

名古屋城の築城

名古屋城1 (1)
  (名古屋城)

徳川家康は慶長14年(1609)豊臣方への備えのため 
名古屋城の築城と 清須から新城下への街丸ごとの引越しを決め

翌慶長15年(1610)加藤清正ら西国大名20家に普請(ふしん=土木工事)を命じ 天守や櫓の作事(さくじ=建築工事)を小堀遠州らに命じ慶長17年(1612)にほぼ完成

尾張初代藩主として家康九男の義直が入り
16代義宜(よしのり)までの約260年間 藩の政庁として 
そして徳川御三家筆頭尾張徳川家の居城として栄えた

天守

天守は層塔型五重七階地下一階 
昭和20年(1945)名古屋空襲で本丸のほとんどが焼失
昭和34年(1959)天守など鉄筋コンクリートで再建された

名古屋城3(1)
  (名古屋城天守と小天守)

名古屋城天守は現存天守で
最大級の姫路城天守の3倍以上の容積を持つ

天守は再建から半世紀が経過し 
設備の老朽化や耐震性の確保問題が発生
更には木造復元のため 現在は閉館している

隅櫓(すみやぐら)

隅櫓は攻めてくる敵を監視・防戦する役割を持つ建物
食料や武器を保管する場所でもある

それぞれの櫓は建つ位置から東西南北で表し 
石垣の上に櫓を繋ぐように横に長い一階建ての櫓があった
城壁を兼ね兵器や食料を収容するためのもので 
これが多門櫓と呼ばれるもの

名古屋城では四隅にあったが東北隅櫓が焼失 
三つが残り重要文化財となっている

写真下は西南隅櫓
構造は三階で二階の南・西面に張り出し部があり 落狭間(石落とし)が二方面にある 
床には開閉式の穴があり石垣に接近した敵兵を銃撃する仕掛けであった 

小屋根は千鳥破風(三角形の小型屋根)が付けられ
南側には高級な意匠である軒唐破風(屋根が丸く反った曲線状の破風)が組み合わされている
また鬼瓦や軒丸瓦に菊家紋がある

名古屋城4(1)
  (西南隅櫓と左に天守が見える)

西北隅櫓と東南隅櫓
西北隅櫓は三重三階の櫓でこれだけでも高知城・丸岡城・宇和島城天守をしのぐ大きさ
清須城天守を移築したと伝えれることから清須櫓と呼ばれている

名古屋城6 (1)
  (西北隅櫓と鬼瓦の木丸瓦の家紋 及び櫓内部)

名古屋城5(1)
  (左 西北隅櫓 右 東南隅櫓の外観)

石垣

石垣工事を命ぜられたのはもと豊臣家臣の外様大名二十家
中でも 加藤清正は石垣の名人とされ
清正は天守台の工事を3ケ月足らずで終えたと言われている

名古屋城7(1)
(名古屋城の石垣)

清正による石積法は独自の「扇勾配」で「清正流三日月石垣」と言われている

他の石垣工事の作業現場は大名ごとに決められるが 
現場は複雑入り込み 集めてきた石が隣の現場のものと混同されないよう石に刻印(目印)を付け区別した

石垣を見ると色々な刻印が見られる

名古屋城8(1)
 (刻印された石)

城門

正門(櫓門)は
明治44年に旧江戸城内の蓮池(はすいけ)御門が移築されたが第二次世界大戦で焼失
昭和34年(1959)天守閣と同時に再建された

名古屋城9(1)
  (正門と本丸表ニ之門)

本丸表ニ之門(高麗門)は 本丸への入口 焼失せず重要文化財となっている
重要文化財となっているのは 他に本丸東二之門 二之丸大手ニ之門

乃木倉庫

この倉庫にはほとんど観光客はいない
takarinnさんのご主人が特別案内してくれた

乃木希典(のぎまれすけ)が名古屋鎮台に在任していた明治初期に建てられ 以降「乃木倉庫」と呼ばれている
もともとは煉瓦造り旧陸軍の弾薬庫 

名古屋城13(1)
  (乃木倉庫)

昭和20年(1045)5月の名古屋空襲の際 天守閣・御殿等が焼失したが 本丸御殿の障壁画や天井絵類の大半を取り外してこの倉庫に保管したため被災を免れた 大活躍した倉庫である

後にレンガの保全のため白塗りにしたとの説明書きがあった

堀(ほり)

鵜の首(うのくび)と呼ばれる堀がある
鵜の首とは堀を内側に入れこみ道幅を狭くした部分
本丸の周囲には大手・搦手(からめて)など5ヶ所に鵜の首があり 
本丸への敵の侵入を阻んでいた

名古屋城14(1)
  (堀と鹿)

上写真 水のない堀であるが 現在は何頭かの鹿が住みついており
この日も3頭ほどの鹿が見られた

金の鯱

名古屋城の屋根のてっぺん高さ48m(14階建てのビルに相当)にある金の鯱
火除けのまじないとして飾られてきた鯱は 徳川家の権力の・財力を誇るもの
創建時 貼られた金の量は慶長大小判で1940枚

現在の鯱は二代目 

名古屋城10(1)
  (金の鯱)

江戸中期 尾張藩の財政が苦しくなったことから 金の鯱のうろこを溶かし直し 純度を下げることで捻出したお金で財政難を乗り越えたという 

このことは何度も繰り返され 
その度に金の質が低下し輝きも衰えたという

名古屋城12(1)
  (金シャチ募金に一役の鯱 横には募金箱が置かれている)

平成29年(2016)から名古屋城天守閣の木造復元のため
「金シャチ募金(名古屋城天守閣寄付金)」を行っている



「現存天守12城めぐり」 ~名古屋城その2~へつづく
次は「名古屋城本丸御殿」の予定



「現存天守12城めぐり」~犬山城~

「現存天守12城めぐり」 第8弾 「犬山城」

6月15日
「彦根城」から名神高速道路を経て愛知県犬山市の「犬山城」へ
時間にして1時間20分ほどで到着

犬山城1(1)
  (犬山城)

犬山城は尾張と美濃の境界 (愛知県と岐阜県の県境)
木曽川を天然の堀として利用し 標高88mの丘に築かれた平山城

別名は「白帝城」
儒者荻生徂徠(おぎゅうそらい)が李白の詩(早發白帝城)にちなんで命名したと伝わる
これは木曽川沿いの丘の上の城を 
長江流域の丘上にある「白帝城」に例えたもの

犬山城の築城主は織田信長の叔父織田信康で 天文6年(1537)のことであった

城下は観光化され お土産屋がずらり 駐車場も整備されていた

さっそく天守目指して登って行く

犬山城2(1)

「松の丸」から「本丸」へ入る門をくぐると
右が「桐の丸」「杉の丸」 左が「桜の丸」とほぼ連郭式に並べた形
その間を直線的な石段となって 天守に向かっている

ほとんどの城は直線的な動線を避けているが 
犬山城は珍しい形式である

犬山城3(1)
 (犬山城天守)

犬山城は望楼型 三層四階地下二階
国宝に指定されている犬山城・松本城・彦根城・姫路城・松江城の中でも最も古い城で
1600年の関ヶ原合戦の頃を中心に城郭は整備されている

一階には四戦場の図(長久手・関ケ原・姉川など)が展示

天正12年(1584)小牧長久手合戦の際 
秀吉は12万5千の大軍を率いて大阪城を進発しこの犬山城に入城
小牧山に陣を布いた家康軍と対戦した

犬山城4(1)
  (一階資料展示室部分)

二階・三階には当時の甲冑・鬼瓦などが展示されている

鬼瓦は犬山城に伝来する最も古い瓦の一つで江戸時代のもの 
宝珠を背負ったかめが岩を歩く姿を表現し 
吉祥を表しているそうだ

犬山城5(1)
  (甲冑・瓦・上段の間)

天守の階段はどの城も急で 登るのが大変
当時は手すりなど無かったのであろう

犬山城6(1)
  (階段と内部の様子)

天守はそれほど大きくはないが 
天守東西の正面には入母屋破風 三階の南北には唐破風があり
この唐破風を利用した唐破風の間がある

犬山城7(1)
  (唐破風の間)

城主は目まぐるしく交替し 
元和3年(1617)尾張徳川家の付家老の成瀬正成が城主となった
その後成瀬氏9代が明治まで城主として居城 

平成16年(2004)まで日本唯一の個人所有の城であった

犬山城8(1)
 (天守最上階 壁には歴代城主の肖像画が掲げられている)

天守最上階には回廊(周り縁)があり ここからは絶景が見渡せる
(ボクは怖くて渡れない)

犬山城9(1)
  (天守最上階の回廊)

地下では
築城当時の石垣の様子や木材が多く使われている様子を見ることができる

犬山城10(1)
  (石垣と使用された木材の様子)

天守の東方に枯れた杉の木があり 
「大杉様」と名付けられていた

樹齢650年 犬山城築城頃からの老木で天守閣と同じほどの高さあり 落雷には城の代わりに 台風の時には風よけになったりして城を守る御神木として崇められてきたようだが

昭和40年(1965)頃に枯れたとのこと 
(枯れる前の高さ約24m 天守の高さは19m)

犬山城12(1)
  (御神木 大杉様)

天守台石垣は野面積(のづらづみ)で高さは5m
どの城の石垣も素晴らしい

犬山城11(1)  
  (犬山城)

次は「名古屋城」に向かう



「現存天守12城めぐり」~彦根城~

「現存天守12城めぐり」 第7弾 「彦根城」

6月15日 
京都から彦根城へ名神高速道で1時間20分ほどで到着
二の丸駐車場に車を止め 城内へ

駐車場付近には二の丸佐和口多門櫓と彦根城馬屋がある
丸佐和口多門櫓は明治に再建されたもので
 
馬屋は藩主などの馬が繋がれていたところ
城内に残る馬屋は彦根城にしかない珍しい建物

彦根城1-1(1)
  (上 二の丸佐和口多門櫓と 下 彦根城馬屋)

彦根市のキャラクター「ひこにゃん」が出迎え

彦根城2-1(1)

天守目指して 登って行くと 続櫓(つづきやぐら)と太鼓門が目に入る

彦根城2(太鼓門・続櫓)(1)
  (続櫓(つづきやぐら)と太鼓門)

太鼓門をくぐると 廊下橋・天秤櫓
戦時には廊下橋を落として敵の侵入を防ぐと伝わる
建物土台の石垣は右側が築城当時の打ち込みハギ積 左側が改修した落とし積

彦根城3(廊下橋・天秤櫓)(1)
  (廊下橋・天秤櫓)
天秤櫓とは櫓の左右に二重櫓を配した形から称されている

さらに本丸へと昇る

彦根城6(1)

天守が見えた

彦根城4(天守)(1)
  (彦根城天守)

彦根城は徳川四天王の一人井伊直政が琵琶湖湖畔の磯山(いそやま)に築城を計画
直政の死後遺志を継いだ子の直継(なおつぐ)が彦根山(金亀山)に慶長12年(1607)に完成
別名「金亀城(こんきじょう)」

天守は三重三階 華麗な装飾を施された天守は明治維新の廃城令も戦災もまぬがれた
城本来の機能である軍事面でも優れており
現存天守の中でも最も多くの破風に飾られた天守
種類も入母屋破風 唐破風 切妻破風と多様

昭和27年(1952)に国宝指定
国宝天守は彦根城以外は姫路・松本・犬山・松江城だけ

彦根城7(1)
  (内部の様子)

平時は外から見えないように漆喰壁で塗りこめられており 戦時には壁を突き破って使用する

彦根城8(1)
  (内部の様子)

天守北側の附櫓と多門櫓の壁は鉄砲玉から守るために二重壁として 間に栗石を詰め防弾効果を高めている

彦根城9(1)
  (内部の様子)

多様な唐破風を設けたため4~5人が入れる隠し部屋と呼ばれる部屋が4ヶ所あり
天守内には82箇所もの鉄砲・矢狭間を備えている

彦根城10(1)
  (天守からは琵琶湖が望まれる)

国名勝 「玄宮楽々園(げんきゅうらくらくえん)」

彦根城の北東にある大池泉回遊(だいちかいゆう)式の旧大名庭園
延宝6年(1678)に彦根藩4代藩主井伊直興が整備
彦根藩の二の丸御殿で槻御殿(けやきごてん)と呼ばれていたそうだ

江戸時代後期の文化10年(1813)には第11代藩主井伊直中の隠居屋敷として再整備されている

玄宮楽々園3(1)
  (玄宮園)

庭園部分を「玄宮園」 屋敷部分を「楽々園」と呼び分けている

屋敷は数寄屋建築で現在も整備中であったが内部は開放されている
開国の英傑井伊直弼(なおすけ)も1815年父直中の14男としてこの屋敷で生まれているそうだ

玄宮楽々園1(1)

玄宮楽々園2(1)
  (楽々園 屋敷の様子)

玄宮楽々園からの彦根城の景観もまた素晴らしい

彦根城12(1)
  (玄宮楽々園からの彦根城)


「現存天守12城めぐり」番外編4~金閣寺~

「現存天守12城めぐり」番外編 第4弾「金閣・鹿苑寺」

6月14日 「二条城」から「金閣寺」へ
「二条城」「金閣寺」を訪れるのは高校の修学旅行以来 
あれから半世紀も過ぎている

「金閣寺」は正式名称「金閣・鹿苑寺(ろくおんじ)」で 臨済宗相国寺派の禅寺
お釈迦様の舎利(お骨)をまつっている舎利殿「金閣」が特に有名なため一般的に「金閣寺」と呼ばれている

建物内外の金箔を貼った三層の桜閣建築 
眩しいほどである

金閣寺1(1)
  (金閣・鹿苑寺)

寺名は創設者の室町幕府三代将軍足利義満の法号「鹿苑院殿」にちなんでいる

この地は鎌倉時代に西園寺公経(さいおんじきんつね)の別荘「北山第」があり
足利三代将軍足利義満がこの別荘「北山第」を気に入り 応永4年(1397)に西園寺家から譲り受け 山荘「北山殿」を造った

総門(そうもん)
海外からの観光客も多く この日も団体客が入り込んでいた

総門1(1)
  (金閣・鹿苑寺総門)

境内には様々な施設等があるが 写真に撮ったものだけを紹介

境内図1(1)
  (案内板)

唐門(からもん)
小雨が降ってきたがすぐ上がった

唐門2(1)
  (唐門)

庫裏(くり)
禅宗特有の様式建物で 切妻造りで明応・文亀年間(1492~1504)のもの

庫裏2(1)
  (庫裏)

龍門(りゅうもん)の滝
この滝は23mもの高さを一段落としにしたもので 龍門の滝を鯉が登りきると龍に化するといわれる中国の故事登龍にちなんだ鯉魚石(りぎょせき)が置かれている
いままさに跳ね上がらんとする龍の姿が滝壷の所に斜めに傾いた動きのある石で表現されているようだ

龍門の滝2(1)
  (龍門の滝)

金閣寺垣(きんかくじがき)
龍門の滝左側山畔に石段があり この小さな石橋を虎渓橋(こけいきょう)といい 
その両側に低い竹垣があり
これが金閣寺垣と称され小竹垣の代表とされている

金閣寺垣2(1)
  (金閣寺垣と虎渓橋)

銀河泉(ぎんがせん)
金閣の後ろを進むと銀河泉(ぎんがせん)があり ここの水を義満がお茶の水に使ったと伝えられている
いまも清冽な清水が湧き出している

銀河泉2(1)
  (銀河泉)

金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世に表したと言われ 後小松天皇(一休禅師の父)を招き また室町幕府は中国(明国)との交易を盛んに行い 北山文化の中心として発展した

金閣寺2(1)

鏡湖池(きょうこち)を中心とし 葦原島など大小の島々や当時の大名が石を献納し その名がつけられた畠山石や赤松・細川石などの名石が残されている
西側の衣笠山を借景とした庭園は室町時代の代表的な池泉(ちせん)回遊式庭園と呼ばれている

金閣寺3(1)

義満の没後 遺言により夢窓国師(むそうこくし)を開山(初代の住職)とし 
義満の法号「鹿苑院殿」から二字をとり「鹿苑寺」と名付けられた

金閣は昭和25年(1950)の放火によって焼失 
現在の金閣は 昭和30年(1955)に再建されたもので

再建時には10cm角の金箔が10万枚 
その後の修復で20万枚使用された


「現存天守12城めぐり」番外編3~元離宮二条城~

「現存天守12城めぐり」で京都に2泊
6月14日 京都市内数ケ所を回った

今回は「現存天守12城めぐり」番外編「岡山城」 「京都御所」に続いて
その3 「元離宮二条城」

二条城配置図(1)
  (城内図)

二条城は慶長8年(1603) 江戸幕府初代将軍徳川家康が天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所とするために築城したもの

3代将軍家光が寛永3年(1626) 
後水尾天皇の行幸に合わせ城内を大規模改修を行い 
二の丸御殿にも狩野探幽の障壁画など数多く加えられ壮麗な城に天皇を迎えた

慶応3年(1867)
15代将軍慶喜が二の丸御殿大広間で「大政奉還」の意思を表明したことは有名

二条城の玄関 東大手門
寛永2年(1662)頃のもの 
2階建てで寛永の天皇行幸の際には2階から見下ろさないようにとの配慮で一重の門に建て替えられたとのこと

二条城1(東大手門)(1)
  (東大手門)

唐門
二の丸御殿の正面にあり 屋根の前後に唐破風が付いている
平成25年(2013)に修復工事を行い往時の姿によみがえった

二条城2(唐門)(1)

門には長寿を意味する「松竹梅に鶴」 聖域を守護する「唐獅子」など豪華絢爛な極彩色彫刻がある

二条城3(1)(唐門)
  (唐門)

二の丸御殿
6棟が雁行形に立ち並ぶ御殿
部屋数33室 800畳余りもある内部は代表的な「松鷹図」をはじめ
多くの狩野派の障壁画で装飾されている

二条城5(1)(二の丸御殿)
  (二の丸御殿)

二の丸庭園
寛永3年(1626)後水尾天皇行幸のために作事奉行小堀遠州の下で改修
池の中央に蓬莱島 左右に鶴亀の島を配した書院造庭園がある

二条城6(1)(二の丸庭園)
  (二の丸庭園)

本丸櫓門
本丸御殿・庭園へ向かう東橋と本丸櫓門 そして内堀

二条城7(1)(本丸櫓門)
  (本丸櫓門と内堀)

本丸御殿
本丸御殿は明治26年(1893)に京都御所の北東部にあった桂宮御殿を移築したもの
周りは本丸庭園
明治天皇の行幸の際に枯山水から大改造した庭園

本丸御殿1(1)
  (天守閣跡からの本丸御殿)

天守閣跡
本丸の南西隅には伏見城から移された五重六階の天守閣があったが寛延3年81750)に落雷によって焼失 石垣だけが残り
天守閣があった場所は砂利を敷いた広場になっている

二条城8(1)(天守閣跡)
  (天守閣跡)

天守閣跡からの景色

二条城9(1)(天守閣跡から)


清流園へ向かう途中の 内堀・石垣

二条城10(1)(城内から内堀)
  (内堀の様子)

清流園と香雲亭
京都の豪商角倉家の屋敷跡から建築部材・庭石・樹木を譲り受け 昭和40(1965)に作庭
香雲亭・茶室和楽庵がある和風庭園と芝生の洋風庭園からなる庭園となっている

二条城11(1)(清流園)
  (清流園と香雲亭)

大政奉還記念樹
大政奉還百五十周年の記念樹(桜)がこの清流園内にある

二条城14(大政奉還記念樹)(1)
  (大政奉還百五十周年記念樹)

北大手門
清流園側にある二の丸に入るもう一つの門 

二条城13(1)(北大手門)
  (北大手門)

二の丸御殿の内部は撮影禁止となっているので
見ずらいがパンフレットの一部を掲載

パンフ2(1)
(元離宮二条城パンフから)

豪華絢爛 こんな感じでした


「現存天守12城めぐり」番外編2~京都御所~

「現存天守12城めぐり」 番外編その2 「京都御所」

「京都御所」は城ではないが 
今回城めぐりの旅で6月13日に姫路城から京都に入り立ち寄った

京都御所は以前宮内庁に事前申し込みをしなければ参観できなかったが
3年ほど前から一般公開となった 

建物の中に入ることは出来ないが 参観は無料 敷地内には駐車場もある

さっそく 清所門(せいしょもん)から御所に入ってみると
築地塀(ついじべい)に囲まれた中は広く なんと解放感があること

京都御所1(1)
  (清所門)

平安遷都から明治維新まで都は京都にあり 天皇のお住まいがこの「京都御所」
桓武天皇が平城京(奈良)から長岡京(京都府)を経て延暦2年(794)に平安京に都を移されたのがはじまり

現在この場所は元弘元年(1331)に光厳天皇がここで即位されて以降 明治2年(1869)に明治天皇が東京に移られるまでの約500年間天皇のお住まいとして使われた

この間幾度となく火災に遭いその都度再建され  
安政2年(1855)に再建されたのが現在の京都御所とされている

この御所は天皇の日々の御生活や数々の宮中の年中行事をはじめ 幕末期の王政復古の大号令 五箇条の御誓文の発布 また
明治・大正・昭和天皇の即位の礼が行われた歴史的な舞台となった場所である

清所門の並びに宜秋門(ぎしゅうもん)がある

京都御所2(宜秋門)(1)
  (宜秋門)

そして御車寄(おくるまよせ)
高位な貴族などが参内した際に儀式や天皇との対面のため使用した玄関

京都御所3(御車寄)(1)
  (御車寄)

諸大夫の間(しょだいぶのま)
正式な御用で参内した公家や将軍家の使者の控えの間
身分によって部屋が決まっている 建物の向かって右に行くほど身分が高い

京都御所4(諸大夫の間)(1)
  (諸大夫の間)

新御車寄(しんみくるまよせ)
大正4年(1915)大正天皇の即位の礼が行われるのに際し馬車による行幸に対応する玄関として新設されたもの

京都御所5(新御車寄)(1)
  (新御車寄)

建礼門(けんれいもん)
南向きにある正門 現在は天皇陛下及び国賓が来られた際に使用されている

京都御所6(建礼門)(1)
  (建礼門)

承明門(しょうめいもん)
この門に囲まれた内部に紫宸殿(ししんでん)がある
朱が鮮やか あと数十年もすれば落ち着いた色になるのか

京都御所7(承明門)(1)
  (承明門)

紫宸殿(ししんでん)
最も格式の高い正殿 即位の礼などの重要な儀式が行われた
慶応4年(1868)の「五箇条の御誓文」発布の舞台ともなっている

京都御所8(紫宸殿)(1)
  (紫宸殿)

清涼殿(せいりょうでん)
平安中期から天皇の日常のお住まいとして使われた御殿
政事・祭事など重要な儀式も行われていた

京都御所9(清涼殿)(1)
  (清涼殿)

小御所(こごしょ)
江戸時代には将軍や大名など武家との対面や儀式の場として使われた
明治維新の際には「小御所会議」がここで行われている

京都御所10(小御所)(1)
  (小御所)

蹴鞠(けまり)の庭
革製の鞠を地面に落とすことなく蹴り続ける伝統的な球戯
勝敗を争うものではなく いかに蹴りやすい鞠を相手に渡すかという精神のもの

京都御所(蹴鞠の庭)(1)
  (蹴鞠の庭)

御学問所(おがくもんじょ)
御読書始めや和歌の会などが行われた場所

京都御所11(御学問所)(1)
  (御学問所)

春興殿(しゅんこうでん)
大正4年(1915)大正天皇の即位礼に際し皇居から神鏡を一時的に奉安するために建てられた

京都御所12(1)(春興殿)
  (春興殿)

御常御殿(おつねごてん)
清涼御殿に設けられるようになっていた常御所が天正18年(1590)に建物として独立したもの
天皇のお住まいでもあり儀式や対面の場としても使われた

京都御所13(1)(御常御殿)
  (御常御殿)

御池庭(おいけにわ) 御内庭(ごないてい)
庭も見事に整備されている
池を中心とした回遊式庭園

御池庭1(1)

曲折した遣水(やりみず)を流して諸所に土橋や石橋を架け灯篭や庭石を配した風雅な御庭

御内庭1(1)

建物は荘厳で 華やかな御所であった

プロフィール

KEARASHI

Author:KEARASHI
2013年10月リタイアをきっかけに、木彫・木工クラフト工房を開設しました。
木に新しい命を吹き込むという思いを込め、「萌樹工房」(もえぎこうぼう)と名付けています。
ブログでは、工房の様子や他の趣味等を載せていきます。

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