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北海道150年と松浦武四郎 ~その1~

明治2年に「北海道」と名付けられ
今年150年を迎える

「北海道」の名付け親は 
幕末の探検家 松浦武四郎

松浦武四郎碑1
(小平町道の駅駐車場に立つ松浦武四郎像)

大久保利通の推挙により蝦夷地の名称の考案を依頼され 
その一つに「北加伊」を明治政府に提案
最終的に「北加伊」を「北海道」に修正し決定された

「蝦夷地」の改称によりこの地全体が日本の領土に編入されたことを意味し 近代の北海道開拓すなわち「蝦夷地」の「和人地化」が必然とされる根拠となった

この「加伊」は松浦武四郎が天塩川流域の調査中にアイヌから教わった言葉で「その土地に生まれた者」という意味のアイヌ語で「北加伊」は「北に暮らすアイヌ民族の大地」という意味 

また
「蝦夷」を「かい」と読み これを「海」の字を当て「北陸道」を真似て「北海道」としたもの
これはアイヌ民族に同情的であった松浦武四郎の献言によるという

しかしこれは五幾七道という古代の行政区分に類似した呼称によってあたかも蝦夷島が歴史的に日本領であるかのような錯覚を生ませる効果があったようである
(五幾七道とは 畿内(五国) 東海道 東山道 北陸道 山陰道 山陽道 南海道 西海道)

松浦武四郎は6度にわたる「蝦夷地」探検でアイヌの人々の協力を得たことから アイヌ民族に対し畏敬の念を抱いていた

松浦武四郎碑
(小平町道の駅駐車場に立つ松浦武四郎像)

その表れとして
蝦夷地探検の集大成の一つである「東西蝦夷山川地理取調図」の解説書にアイヌの協力者279人の名を記載している

東西蝦夷山川地理取調図
(昨年当市で展示された東西蝦夷山川地理取調図)

開拓判官として根室在勤時にはアイヌのアットゥシ(アツシともいい 木の内皮の繊維からつくった糸で織る布 またはその布を使った着物)を着こなし アイヌの生活向上にも尽力したことから「アツシ判官」とも呼ばれていたようである

松前藩によるアイヌ民族への過酷な扱い また幕府の和人化政策に不信感を抱きながら「近世えぞ人物誌」(99人の悲痛な扱いを受けた人物列伝)をまとめたり

アイヌ民族の意向を無視した政治を批判した書物を出版したが 世間に広がりを見せることはなかった

また 蝦夷に居を構え一庶民として「えぞ漫画」や 北の営みを記した書物を出版 
これらは「多気志楼物(たけしろうもの)」と呼ばれていた

松浦武四郎は
開拓判官(開拓長官 同次官に次ぐ地位)まで昇り詰め 商人とアイヌ民族の関係改善等を強く求めたが 認められず

その結果 自ら職を辞し 
その後二度と北海道を訪れることはなく

明治21年 70年の生涯を終えた

また蝦夷地探検での日誌「石狩日誌」「天塩日誌」「夕張日誌」などを刊行しているが 木版で刷られた和綴じの「十勝日誌」は北海道銘菓のお菓子の詰め合わせの菓子箱に見立てたものがある

十勝日誌
(北海道銘菓の菓子箱)

さらに松浦武四郎は「石狩」や「十勝」の名付け親でもある

この度
松浦武四郎の出身地三重県に本社を置く「井村屋グループ」と情報通信会社「たけしろうカンパニー」はこの紀行文「十勝日誌」を平易な現代語でまとめた自由訳を発行 

「北海道150年事業」の関連事業で子どもたちの教材に活用してもらう予定になっている

歴史学者の評価はそれぞれあるが

松浦武四郎は
「北海道」にとっては偉大な「歴史上の人物」である

注:松浦武四郎は建白書において「北加伊」案はアイヌが自らを「カイ」と呼んでいることから考案したと説明しているが 言語学者の金田一京助は 当時そのような事実を示す証拠は見つかっていないと唱えている

参考 「北海道の歴史」
    NHKBS「英雄たちの選択}
    北海道新聞
    ウィキペディア

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プロフィール

KEARASHI

Author:KEARASHI
2013年10月リタイアをきっかけに、木彫・木工クラフト工房を開設しました。
木に新しい命を吹き込むという思いを込め、「萌樹工房」(もえぎこうぼう)と名付けています。
ブログでは、工房の様子や他の趣味等を載せていきます。

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