
「現存天守12城めぐり」~宇和島城~
|Posted:2019/07/03 00:00|Category : 城めぐり|
「現存天守12城めぐり」 第3弾 宇和島城
6月11日
松山市から同じ愛媛県の宇和島市まで高速道路で1時間半
江戸時代から四国西南地域の中心として発展した宇和島市は 伊達十万石の城下町と呼ばれた
宇和島城はリアス式海岸の宇和海の最深部に位置し
標高74mの山頂に本丸をおく平山城
駐車場に車を置き 山頂目指して登って行く
お多福の足取りはボクよりずっと軽やか

途中ボランティアの方が上までの道の様子を教えてくれた
天守が見えてきた

宇和島城は慶長元年(1596)から6年を費やして築城の第一人者藤堂高虎が築いた
堀は全て埋め立てられ 三ノ丸など総郭部分はほとんど焼失などで失い
残っているのがわずか本丸の天守と武器庫(現在は資料館)

(天守は小さいが 立ち姿が素晴らしい)
天守は三層三階 もともとは下見張子小柄で旧式の望楼型天守だったが
特徴的なのは石垣や土塁を用いず 隆起した岩盤の上に建設
寛文6年(1666)に建てられた現存の二代目天守は宇和島伊達家2代宗利が再建
層塔型で千鳥破風や唐破風などに飾られた装飾性の高いものになった

上の尖った形のが千鳥破風 下左右の丸みがかったのが唐破風
二階と三階の様子

階段はどこの城も急で歩幅が広く危ないので
観光客用が 手すりが付けてれれている

下の写真上は宇和島城を描いた鳥観図
襖絵であったものを昭和になって屏風絵に仕立てられたものをデジタルカメラで原寸大で複製したものとのこと

上写真の下は伊達政宗と伊達秀宗(正宗の長男)
築城した藤堂高虎はすぐ今治築城のため宇和島を離れ
大坂の陣後 石垣や天守 櫓は慶長20年(1615)に入部した伊達政宗の長男秀宗が修築
秀宗は正宗の後継となれずこの地で十万石を与えらえれ この城は伊達家が明治まで伝えた
宇和島城からの宇和島市の街並み
宇和海を見渡すことができる

6月11日
松山市から同じ愛媛県の宇和島市まで高速道路で1時間半
江戸時代から四国西南地域の中心として発展した宇和島市は 伊達十万石の城下町と呼ばれた
宇和島城はリアス式海岸の宇和海の最深部に位置し
標高74mの山頂に本丸をおく平山城
駐車場に車を置き 山頂目指して登って行く
お多福の足取りはボクよりずっと軽やか

途中ボランティアの方が上までの道の様子を教えてくれた
天守が見えてきた

宇和島城は慶長元年(1596)から6年を費やして築城の第一人者藤堂高虎が築いた
堀は全て埋め立てられ 三ノ丸など総郭部分はほとんど焼失などで失い
残っているのがわずか本丸の天守と武器庫(現在は資料館)

(天守は小さいが 立ち姿が素晴らしい)
天守は三層三階 もともとは下見張子小柄で旧式の望楼型天守だったが
特徴的なのは石垣や土塁を用いず 隆起した岩盤の上に建設
寛文6年(1666)に建てられた現存の二代目天守は宇和島伊達家2代宗利が再建
層塔型で千鳥破風や唐破風などに飾られた装飾性の高いものになった

上の尖った形のが千鳥破風 下左右の丸みがかったのが唐破風
二階と三階の様子

階段はどこの城も急で歩幅が広く危ないので
観光客用が 手すりが付けてれれている

下の写真上は宇和島城を描いた鳥観図
襖絵であったものを昭和になって屏風絵に仕立てられたものをデジタルカメラで原寸大で複製したものとのこと

上写真の下は伊達政宗と伊達秀宗(正宗の長男)
築城した藤堂高虎はすぐ今治築城のため宇和島を離れ
大坂の陣後 石垣や天守 櫓は慶長20年(1615)に入部した伊達政宗の長男秀宗が修築
秀宗は正宗の後継となれずこの地で十万石を与えらえれ この城は伊達家が明治まで伝えた
宇和島城からの宇和島市の街並み
宇和海を見渡すことができる

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